われらのクールス https://kasegublog.tokyo Mon, 04 Sep 2023 07:25:05 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.3 https://kasegublog.tokyo/wp-content/uploads/2021/11/cropped-おれ-32x32.jpg われらのクールス https://kasegublog.tokyo 32 32 クールスのメンバーそれぞれの立ち位置と上下関係とは https://kasegublog.tokyo/archives/5160?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2582%25af%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25b9%25e3%2581%25ae%25e3%2583%25a1%25e3%2583%25b3%25e3%2583%2590%25e3%2583%25bc%25e3%2581%259d%25e3%2582%258c%25e3%2581%259e%25e3%2582%258c%25e3%2581%25ae%25e7%25ab%258b%25e3%2581%25a1%25e4%25bd%258d%25e7%25bd%25ae%25e3%2581%25a8%25e4%25b8%258a%25e4%25b8%258b%25e9%2596%25a2 https://kasegublog.tokyo/archives/5160#respond Sat, 11 Sep 2021 00:43:38 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5160 僕のブログでは舘ひろし、岩城滉一、佐藤秀光が中心になり作った大人のバイクチームクールスについて分かりやすく解説しています。

今回は視聴者からの問い合わせに答えて、「舘ひろしさんと岩城滉一さんはどっちが格上なんですか」について回答していきます。

それだけでは内容薄になってしまいますので、クールスのメンバーそれぞれがどのような関係にあったのかについても僕が知っている範疇で解説していきます。

僕のブログでは史実に忠実にを大前提に記事を書いていますので、クールスの情報を入手するのにはうってつけのブログになっています。

なので、サクッとクールス情報を手入れたい方はブックマークをしておくと便利ですよ。

それでは本題に入って行きましょう。

なお、YouTube動画で見たい方はこちらからどうぞ⇒https://youtu.be/dlSXYwS8_E0

クールスのメンバーそれぞれの立ち位置と上下関係とは

舘ひろしさんと岩城滉一さんが出会うきっかけになったのが原宿に会った飲食店というのが一般的に知られている情報のようですが、僕の見解はちょっと違います。

遠藤夏輝さんの書いた原宿ブルースカイヘブン、佐藤秀光さんが書いたハングリーゴッド

そして、大久保喜市さんが書いたストレンジブルー、ジェームス藤木さんが書いたジェームス自伝、その上、クールスのメンバーのインタビューなどなどあらゆる情報源から考えると
原宿にあったディノバーガーではないかと思います。

しつこいようですが、一般に出回っている情報は玉川雅已さんがお亡くなりになった時の記事を書いた週刊女性セブンに記載されたもののようです。

しかし、以前取り上げたようにこの記事はところどころ記者の独断的な意見だけで裏付けを取っていない内容となっています。

だから、ぼくが思うのにはこの記者が言っている飲食店というのではないと考えるのです。

まぁ、今回のテーマとはかけ離れたことなのでこの辺にしておいて

この時、同席していたのは佐藤秀光さんと後何人かのメンバーだったようです。

佐藤秀光さんが同席していたのは確かなのですが、他のメンバーは梅村光男さんと

飯田和男さんだったのかと推測します。

佐藤秀光さんが同席していたのは事実のようです。

そして、僕がどうして梅村光男さんと飯田和男さんが同席していたと推測するかと言うと

当時、梅村光男さんは岩城さんの部屋に居候をしていた頃で飯田和男さんはいつも岩城さんの家に溜まっていたマカオのメンバーだったからです。

舘ひろしと岩城滉一、佐藤秀光との出会い

 

店の前に並んでいたバイクの一群を見た舘ひろしが岩城滉一たちのところに近づき

「あのバイクは君たちの?」と話しかける。

舘ひろし24歳、岩城滉一、佐藤秀光23歳の時である。

舘ひろしがバイクに興味を示すと岩城滉一がバイクのことについて語った。

一つ違いの舘と岩城は意気投合した。

というのが一般的に出回っていつ情報であるが、ここで佐藤秀光の存在を抜きにしては語れない。なぜなら、岩城滉一にバイクのイロハを教えたのは佐藤秀光だからである。

同席をしていた佐藤秀光もバイクの話に加わったのは間違いないことで、二人で意気投合したというのではなくむしろ3人で意気投合したのではないかと推測される。

このファーストコンタクトがスタートになり舘ひろし、岩城滉一、佐藤秀光らは付き合うことになる。

舘ひろしを取り巻くメンバーとの上下関係は

そして、バイクチーム結成という運びになるのであるが、ご存知の通り舘ひろしはメンバーからは「ボス」と呼ばれていた。

しかし、岩城滉一と佐藤秀光、そして村山一海、ジェームス藤木はボスではなく名前で「ひろし」と呼んでいた。

グループの中では建前では舘ひろしは「ボス」であったが、4人からは同等とみられていたようである。

その他のメンバーは皆「ボス」とか「大将」と呼んでいたから、自分より上と捉えていたようだ。

ピッピこと水口晴幸だけは「大将」と呼んでいた。そして、今でも呼んでいる。

ここでクールスのメンバーの上下関係を整理するためにメンバーの生年月日を掲げることにしよう。

分かる範囲で紹介するのでご了承あれ

舘ひろし 1950年3月31日生まれ

ジェームス藤木 1951年3月15日生まれ

岩城滉一 1951年3月21日生まれ

佐藤秀光 1951年4月1日生まれ

村山一海 1951年6月17日生まれ

このように舘ひろしはこの4人とは一歳年上であった。

しかし、この4人は舘ひろしを「ひろし」と呼び、「タメ」だと考えていたのである。

その他のメンバーについては

梅村光男(シャチョウ)が24歳。中井陽孝(ヨーチン)が24歳。

その下がピッピさん、22歳。

ピッピさんの一歳下がマサミさん21歳になり、

その下20歳だったのが、郷田さん、ナリカワさん、イチカワさん、フランクさんだった。

そして、大久保喜市さんですがマサミさんと同じ1954年生まれの21歳だったのである。

最後になりますが、モガさん、サムさん、ショウボウさんがいくつだったのかについては分かりません。

こちらについては分かり次第、お知らせします。

ということで、クールス内部では舘ひろし、岩城滉一、佐藤秀光、ジェームス藤木

村山一海は同等だったようですね。

中井陽孝だけは歳が同じなのにもかかわらず、舘ひろしをボスと呼んでいたようですね。

ということで、今回はクールスメンバーの上下関係について見てきました。

なお、もっとクールスのメンバーのことについて知りたい方はこちらを見てください。

クールスのメンバーを教えて?今はどうなっているの?

また、キャロルとの関係を知りたい方はこちらの記事をどうぞ

キャロルとクールスの共通点|矢沢、舘、岩城、ジョニーの関係とは?

そして、舘ひろしが辞めた本当の理由が知りたい方はこちらを見て

【クールス伝説】 舘ひろしのグループ脱退理由がえぐすぎた※鈴木康之が暴露した意図とは

オートバイ超高価買取ならバイク買取専門店パイクワン

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5160/feed 0
岩城滉一が生涯オヤジと呼んだ安藤昇とは https://kasegublog.tokyo/archives/5138?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e5%25b2%25a9%25e5%259f%258e%25e6%25bb%2589%25e4%25b8%2580%25e3%2581%258c%25e7%2594%259f%25e6%25b6%25af%25e3%2582%25aa%25e3%2583%25a4%25e3%2582%25b8%25e3%2581%25a8%25e5%2591%25bc%25e3%2582%2593%25e3%2581%25a0%25e5%25ae%2589%25e8%2597%25a4%25e6%2598%2587%25e3%2581%25a8%25e3%2581%25af https://kasegublog.tokyo/archives/5138#respond Sun, 05 Sep 2021 08:57:12 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5138 この記事は岩城滉一と安藤昇の関係を解説したものである。

どんな関係だったのかを安藤昇の経歴と共に紹介している。

安藤昇に興味のあるあなたには有益な情報となっていると思う。

なので時間の許す限り読んでもらいたい。

なお、記事がめんどくさい方は動画でどうぞ⇒https://youtu.be/dOlMeU6u2fA

安藤昇は裏社会と表社会共に成功を収めた偉人

安藤昇は暗黒な時代の昭和を駆け抜け、裏社会と表社会共に成功をおさめ

「この人あり」と世間に知らしめた異色なヤクザだった。

戦後、大学生を中心とした愚連隊からなる安藤組は

伝統的な博徒ヤクザとは一線を画し、

当時の若者から絶大な支持を集めることになる。

その中には六大学はもちろん、東大生も居たのである。

端正な顔立ちにと引き締まった肉体は自慢であり、

トレードマークになっている左頬の切り傷。

安藤の背広の着こなしはいつもオシャレで、

若い不良たちを虜にしていた。

また、安藤組ではヤクザのしきたりである刺青や指詰めを全面禁止とした。

そのスタイルは新しい時代のヤクザとして最盛期には組員が500人居たという。

渡世を引退した後は映画俳優、歌手、プロデューサー、作家などその才能を
多方面で開花させ、活躍を見せた。

特に映画俳優として頭角を現し、元ヤクザの俳優として売れに売れた。

映画人生34年の中で、56本の映画に出演した。

安藤は第二次世界大戦で配属先の特攻隊から帰還したとき、

「生きながらえたこれからの人生はオマケみたいなもの」と考えたという。

だから、何事にも「為せば成る」という特攻精神で突き進んでいった。

渡世人としても、俳優としても 後世に名を残すほどの成功をおさめたのは

特攻精神があったからではなかろうか。いやそうに違いない。

安藤昇は1926年東京都東大久保で生まれた。ガキの頃から手の付けられない暴れん坊で

その素行の悪さから15歳という若さで、警察のお世話になり18歳の時には少年院にぶち込まれてしまう。

しかし、彼は頭の回転が速く頭が良かった。

少年院で身柄拘束中には大日本帝国海軍の予科練に合格し、その恩赦で娑婆に出た。

当時の日本の戦況は劣勢に立たされており、どんな人間でも戦争に送り出されていた。

そんな中、なぜ安藤が自ら帝国海軍の予科練に志願したのかは分からない。

アメリカからの攻撃が激化した1945年、安藤は神奈川県久里浜の伏龍特攻隊に

志願し配属されていた。

伏龍特攻隊は人間機雷とも呼ばれ、潜水具を身にまとった兵士が海底で待ち構え、

棒付き機雷と一緒に敵の戦艦に突っ込んで、爆破させるという肉弾兵器だった。

毎日死と隣り合わせの過酷な訓練であったが、配属二か月目で終戦となり、

海に散ることなく生還した。

死を覚悟して毎日訓練に励んでいた安藤は生き延びたこれからの人生は

好きなように気ままに生きようと決めた。

戦争を経験した者は戦争が終わった後の虚無感からから暴れまわる者が多かったが

頭が良かった安藤はなぜか、法政大学に進学したものの、

大学で学ぶ理由が見つからず一年も絶たず退学し、仲間と一緒に愚連隊を結成。

左頬の大きな切り傷は23歳の時のものである。

銀座で台湾人と喧嘩になったときに切りつけられたものである。

相手の台湾人から上着を脱ぐから待ってくれと言われ、その言葉を信じて待っていたら
上着に隠し持っていたドスでいきなり切られてしまった。

当時、東京では闇市が流行り、愚連隊が群雄割拠していた。

そんな中、安藤達は一大勢力になり渋谷に「東興業」を設立した。

この東興業が世間では「安藤組」と言われていたのである。

安藤昇が設立した東興業は新しい不良の姿

 

 

東興業は株式会社として登記し、始めは不動産、興業を主な仕事にしていたが、

賭博や債権取り立てなど裏社会のシノギに手を出すようになって行った。

当時から渋谷は若者でにぎわう街で、都会的でスマートな安藤は若者の間で人気になり、

不良たちが挙って東興業に集まった。

背広をオシャレに着こなし、刺青も指詰めも禁止した安藤のやり方は「ヤクザ革命」と呼ばれた若者に支持をされた。

安藤組は一般的にはヤクザとして扱われているが、博徒やテキヤ組織に所属歴がないため

法的にはヤクザではなく、愚連隊という組織であった。

安藤組にはステゴロ最強と言われた花形敬や森田雅等がおり、あの異色な作家阿部譲二が

出入りをしていたことでも有名である。 もちろんクールスの岩城滉一も然りであった。

安藤組が広く世間に認知されたのは1958年の横井英樹襲撃事件がきっかけであった。

安藤は債権取り立てに横井のところに出かけるのであるが、横井の態度や言動に激怒し、

子分に横井の襲撃を命じたのであった。

一発の銃弾が横井に命中。横井は何とか一命をとりとめたものの

命令をした安藤は首謀犯として警察から指名手配された。

一か月の逃亡の末、逮捕され前橋刑務所に収監された。

この一か月間、かくまったのは舞姫のママ山口洋子であった。

花形や森田の力及ばず、組長不在で組織は次第に弱体化していき、

とうとう、警察からの追い込みから組織は分離状態となった。

おもな幹部が次々と逮捕され、右腕の花形敬は東声会の組員にタマを取られてしまった。

花形敬の母親に泣かれた安藤は1964年、組を解散し自らも渡世を引退した。

この時、安藤昇が38歳の時だった。

堅気になった安藤は引退から一年後、松竹からの映画出演を熱望され「血と掟」で衝撃的な俳優デビューを果たすことになる。

実際に命の取り合いをしていた漢の演技が話題になり、直ぐに世間から認められた。。

ギャラも当時のトップ女優であった岩下志麻の2倍という破格の待遇であった。

出演本数も56本に上り、安藤は一時代の金字塔を打ち立てた。

映画全盛期という時代背景もあって、松竹と契約終了後も東映や日活などの映画にも出演し、スターダムへと上り詰めた。なぜなら、五社協定を破ってもだれも安藤には意見ができないほどの大物になっていたのである。

引退後もヤクザとのつながりは続き、ある組織の賭場に出入りをしたとして

警察に逮捕された。この時逮捕された警官からサインを頼まれたというエピソードも残っている。
安藤は俳優として確固たる地位を築いていたにもかかわらず、ある時期からぴたりと映画に出演しなくなった。

その理由はリハーサルで拳銃を撃つシーンがあり、この時「バンバン」と拳銃を撃つ声を出さなければならなかった 。 彼のプライドが許さなかったのである。

なぜなら、本物のチャカを撃っていたのだから。

全てが嫌になった。プライドの高い安藤はもう役者はうんざりだった。

彼は映画の世界から姿を消した。

晩年にはVシネマのプロデュースや執筆活動にも精を出し、右翼団体の相談役もしていたという。
2015年、肺炎のため安藤昇は89歳でこの世を去った。

翌年に行われた「安藤昇 お別れの会」では多くの映画関係者や俳優らが集まり、

その存在の大きさを改めて世間に知らしめた。

岩城滉一は若手の頃から安藤を「オヤジ」と呼び深く深く慕っていた。

自宅が安藤の家に近いことから私生活でも親交が深かった。

亡くなる数日前まで連絡を取り合っていた要だ。

岩城は「弱った自分を見せたくない」という安藤の気持ちを尊重し、

電話だけで看取らな買った。

これが安藤と岩城滉一との関係である。

と言いうことで、岩城滉一さんが生涯オヤジと慕っていた安藤昇について語ってきました。

最後まで見ていただきありがとうございました。

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5138/feed 0
クールスのメンバーを教えて?今はどうなっているの? https://kasegublog.tokyo/archives/4939?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=4939 https://kasegublog.tokyo/archives/4939#respond Mon, 19 Jul 2021 08:33:53 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=4939 僕のブログでは1970年代に活躍したバイクチームクールスについて当時の出来事やその後のメンバーが現在どんな活動をしているのかについてお届けしております。

この記事ではクールスにはどんなメンバーが居てどんな活動をしてきたのかについてお届けしたいと思います。

なので、クールスにどんなメンバーが居たのかについて知らべているあなたには
ドンピシャな記事となっているはずです。

最後まで見てもらえればなと思います。

それではさっそく本題に入って行きましょう。

なお、YouTube動画で見たい方はこちらからどうぞ⇒https://youtu.be/ax5ipXVbAUs

クールスのメンバーにはどんな人がいたの?

クールスは1974年12月13日金曜日に舘ひろし、岩城滉一が中心になり結成された

少数精鋭のバイクチームだった。

結成当時のメンバーは舘ひろし、岩城滉一含めて17人で、その後21人になる。

最後のメンバーになったのはクールス一番の暴れん坊と言われた玉川雅已。

クールスメンバーからは「マチャミ」と言われ親しまれていた。

1975年1月になり全国雑誌MC-sisterより雑誌取材の依頼があり、
舘ひろしと岩城滉一は話し合いの末、取材を受けたのだった。

MC-sisterは少女向けのファッションや流行を取り扱う雑誌だったが、ア
メリカフィフティーズとクールスの今までにないとびぬけたファッション性を紹介する特集を組んで大々的にクールスを取り上げてくれたのだった。

クールスメンバー一人一人が取り上げられ、メンバーの顔写真と共に名前やニックネーム、愛車が紹介されたのである。

その時のクールスメンバーの画像がこちらだ

それではクールスメンバー一人一人を紹介しよう。

舘ひろし (ボス)

岩城滉一 (滉ちゃん)

水口晴幸 (ピッピ)

佐藤秀光 (ヒデボウ)

村山一海 (ムラ)

ジェームス藤木 (ジェームス)

飯田和男 (フランク)

梅村光男 (シャチョウ)

玉村雅已 (マチャミ)

渡部和裕(ターベ)

郷田雅之 (ハーレー)

久木好文(サム)

坂本章(ショウボウ)

中井暢孝(ヨーチン)

福田ゲン(ゲン)

森家ケイスケ(モガ)

市川元道(イチカワ)

成川潤一(ナリカワ)

以上がMC-sisterで紹介されていたメンバーである。

このメンバー、上下関係はどうになっていたのかについては次の記事を参照あれ

クールスのメンバーそれぞれの立ち位置と上下関係とは

しかしながら当時のMCsister6月号は今や幻の雑誌となっており

30万円近いプレミアがつくほどの希少価値がつき、高いものになっている。

なので、直接現物を見たことのない僕にとってはどうしてもここまでの情報になってしまう。

バイクチームの中からバンドメンバーを選抜

MC-sisterが全国でクールスを紹介するのと同時期にクールスはキャロルラストコンサートでの雄姿がテレビ番組銀座nowで取り上げられ、その人気は絶頂になった。

それを受け、バンドCOOLSとして8人のメンバーを選抜。

1975年9月にレコードデビューを果たすことになる。

そのメンバーは次のとおりである。

舘ひろし(ボーカル)

水口晴幸(ボーカル)

村山一海(ボーカル)

ジェームス藤木(ギター)

梅村光男(ギター)

飯田和男(ギター)

佐藤秀光(ドラム)

大久保喜市(ベース)

以上のメンバーでデビューするも途中で梅村光男が脱退。

初期、バンドCOOLSは7人で活動をすることになった。

ちょっと今回のテーマから外れることになるが、

最初はドラムは飯田和男が担当したがドラムができないことでベースに転向。

ベースを練習するもできないことからギターに転向するという経緯があった。

そして、担当不在となったベースに大久保喜市がジェームス藤木の推薦で

加入することになったのである。

そして、7人での活動をしていたバンドCOOLSであったが1977年4月舘ひろしが脱退。

それからのクールスは次のように変貌していった。

その後のメンバーの推移を見ていく前にクールスファンなら次のアルバムを抑えておこう。

舘ひろしが脱退する前のバンドクールスの集大成を収録したのものと言えばBe a good boyだ。

バンドクールスの集大成を収録したBe a good boyをチェックしてみる。
↓  ↓  ↓                  ↓  ↓  ↓

バンドクールスのメンバーとその後の変貌

<第2期 クールス・ロカビリークラブ>
この時のメンバーは水口晴幸、村山一海、佐藤秀光、ジェームス藤木、飯田和男

大久保喜市である。

<第3期 クールスRC>

この時のメンバーは村山一海、 佐藤秀光、ジェームス藤木、飯田和男 、

横山剣、萩野知明である。

特筆すべき点は横山剣がボーカルとして萩野知明がベースとして参加しているということである。この時、大久保喜市はアメリカに音楽行脚に出かけていた。

<第4期 オリジナルクールス90’>

村山一海、ジェームス藤木 佐藤秀光 大久保喜市 濱野(飯田)和男

<第5期 ザ・クールス(THE COOLS)>

村山一海 ジェームス藤木 佐藤秀光  山崎廣明 後藤直樹

このときは 山崎廣明がベース、後藤直樹がギターを担当。

45年の長い歴史で若干あいまいになった点もあるが、現在のクールスの正式メンバーはあくまでも村山一海、佐藤秀光、ジェームス藤木、フランク(濱野)の4人であり、後藤直樹、和田ジョージの2人がサポートとして参加しているようである。

以前のような大会場でのライブはなくなったが、現在もライブハウスや地方の会場で積極的に活動中である。現在、千葉県匝瑳市(そうさし)に、クールス専用のライブハウス「 HUNGRY 」がある。

2010年は、結成から35周年を迎え、更に大久保喜市も復帰し、舘、水口以外のオリジナルメンバーでのツアーも行われた。またその一環として15年振りに9月12日に日比谷野音でのアニバーサリーライブを横山剣を迎え成功させた。

岩城はロックバンド「クールス」には参加していないため、メンバーとの確執は無く、また元々学生時代から現リーダー佐藤と友人だったこともあり、佐藤が企画するファンとのツーリング等に顔を出す等、交流は続いている。

ということで今回はこの辺で失礼します。

最後まで見ていただきありがとうございました。

それでは次の記事でまたお会いしましょう。

クールスメンバー上下関係の記事はこちら

クールスのメンバーそれぞれの立ち位置と上下関係とは

追伸:クールスのメンバーも70歳代になっており、「いつまでバンドが続けられるのか」と思案しているのではなかろうか?

しかし、僕たちのクールスはいくつになっても現役のままでいてほしい。

そして、なんて言いても舘ひろしが居た初期のクールスが良い。

オートバイ超高価買取ならバイク買取専門店パイクワン

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/4939/feed 0
【クールス】舘ひろしがCOOLSを辞める引き金になった出来事がえぐすぎた|もう二度と奴らと会うことは無いとは! https://kasegublog.tokyo/archives/4885?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2580%2590%25e3%2582%25af%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25b9%25e4%25bc%259d%25e8%25aa%25ac%25e3%2580%2591-%25e8%2588%2598%25e3%2581%25b2%25e3%2582%258d%25e3%2581%2597%25e3%2581%25ae%25e3%2582%25b0%25e3%2583%25ab%25e3%2583%25bc%25e3%2583%2597%25e8%2584%25b1%25e9%2580%2580%25e7%2590%2586%25e7%2594%25b1%25e3%2581%258c https://kasegublog.tokyo/archives/4885#comments Wed, 16 Jun 2021 23:13:15 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=4885 この記事では1970年代という激動の時代を黒の革ジャンに身を包み

そのカッコ良さと話題性でたちまち若者のハートをゲット。

後に黒の軍団と言われたバイクチームクールスについて独自な観点から捉え

記事としてお届けしております。

今回取り上げるテーマは舘ひろし、水口晴幸そして鈴木康之の関係についてです。

この話の前にちょっと3人について触れておくことにしましょう。

舘ひろしさんと言えば、言わずもがなクールスのリーダーボスでした。

水口晴幸さんはバイクチームクールスのメンバーであり、その後バンドCOOLSの

ボーカルとして活躍されました。

そして、鈴木康之さんですが当時3000人を擁した一大暴走族の2代目総長として

その名を後世に残した人です。

そんな3人がどのような関係かこれからお話をしていきます。

なお、この記事では鈴木康之さんのブログを参考にしております。

記事を読むのがめんどくさい方はYouTubeでどうぞ⇒https://youtu.be/1fhbXQOkg8w

舘ひろし67回目の誕生日を祝う※そして真実が明らかに

 

2017年3月31日は舘ひろし、ボスの67回目の誕生日だった。

3月というのにその年はまだ寒さが残り、

吐く息も心なしか白くなっていた。

俺は緊張しながら会場へ向かった。

そこにはバイクチームのCOOLSのメンバーと俺の朋友、水口晴幸(ピッピ)がいた。

皆COOLSの正装である革ジャンを着ているではないか。

ちょっと見ただけで「昔は悪かっただろう」と思われるオヤジ達。

髪も白くなったと同時に「人生のいろいろ」を経験した者だけが持つ

いぶし銀な味わいのある顔をしている。

俺が入ると「誰だあいつは?」と怪訝そうな顔つきで俺を見ている。

しかし、誰かが「東北連合の鈴木さんじゃないですか!」の一言で皆顔色が変わった。

あの時代から40年近くも過ぎているというのに「東北連合」というチーム名に

神通力がある事に驚く。

舘ひろし(ボス)は遅れて到着した。

「おーすずきィー 会いたかったぜ」

立ち上がり握手すると嬉しそうにハグしてくれた。

相変わらず身長が高く動作のすべてが絵になる。

やっぱり問答無用にカッコいい。

ずっと見ていたい衝動にかられるほどだ。

あらためて言うがCOOLSにはバイクチームとバンドとがあり、俺の朋友

水口晴幸(ピッピ)はその両方に参加していたメンバーである。

呼ばれたメンバーの中にはジェームスや秀光 一海らの顔は無い。

あたりまえだ!ボスのCOOLS脱退の原因を作り未だにCOOLSで商売してる連中だ。

余談だがこんな話がある・・・

Cools Rockabilly Clubの第2弾アルバム「BE A GOOD BOY」の時の事だ。

当時のマネージャーのから電話が掛ってきて「村山には参ってるんですよ。『俺を郷ひろみみたいに売り出せ』って」

あいつは売れるならアイドルでもタレントでも何でも良かったんだろうな。

そんな奴が未だにCOOLS名乗ってロックンロールだなんてちゃんちゃら可笑しい。

ボスの最後のアルバムとなった「HELLO GOOD BYE」の中に「下手くそ!止めろ止めろ」

とかのめちゃめちゃなことを言っている音源が入っている。

実はこれはボスがヘッドホンして聞こえないのをいいことに秀光と村山が

悪たれをついていたということだ。

奴等が馬鹿なのはこの声が今もレコードをよく聞くとハッキリ入ってる事だ。

発売されてからその事実を知ったボスは苦笑いしながら言った「いいさ、もうコイツ等とは2度と会う事はないんだから」と。

しかし、時がいろいろと解決するんでしょうね。

モガさんが企画したクロコダイルでのCOOLS30周年コンサートには舘ひろしさんが

COOLSのメンバー達と一緒に同じステージに立っているのですから・・・

舘ひろしと鈴木康之の関係そして、革ジャンに込めた思い

 

ボスとはいろいろ話した。

西部警察にボスが出演してた時、撮影が郡山であった。

石原プロの役者スタッフは全員磐梯熱海の栄楽館に泊まっていた。

「鈴木ちょっと会おうぜ」って言うことでボスから連絡があった。

そして、ホテルのロビーにあるコーヒーラウンジで会う事になった。

会計の時現金ではなくカードで払おうとボスはサインした。

舘ひろしと・・・

驚いたことにそこの店員がその伝表を自分の宝物にしたため支払の請求がなかった。

しかし、その店員は後にクビになったそうだ。

ボスがこーちゃん(岩城滉一)と出会いCOOLSを結成し、お互いがバイクチームのトップという立場だった事も親密になった理由のひとつだろう。

ボスは「よくあれだけの大きな組織をまとめられたよな」

東北連合の規模の大きさを褒めてくれる。

でも、東北連合でも絶対敵わないのがCOOLSだった。

原宿を拠店にして革ジャンにリーゼント。そしてハーレーダビッドソン。

こんなにカッコいいバイクチームはない。

その頃の暴走族と言えば木刀持って特攻服って時代にだ。しかもバンドまで。

あの当時、全国の不良の憧れは紛れもなくCOOLSだったし良い意味でも悪い意味でも個性的過ぎるメンバーばかりだった。

ボスがCOOLSを脱退した後セクシーダイナマイツを結成した。

当時ボスは様々なところで「舘は矢沢になりたいんだろ?」と言われた。

確かにキャロル脱退後の矢沢はソロで大成功をおさめた。

そんな矢沢も実は役者でも成功したがっていた。それはボスの活躍を見て

「俺にも出来るはずだ」と。結果はご存知の通りだ。

「泣かないで」のヒットはあったものの歌手としてよりも役者としての評価が高いボス。

歌手として不動の地位を築くも役者としては大成しなかった矢沢。

ボスが矢沢になりたかったか・・・ 今となってみればどうでも良い話だ。

それよりも俺の隣で赤ワインを飲んでるカッコいい長身の男が怒り出した。

「これじゃない!違う革ジャンだ。もう一回戻って取って来い!」

自分の誕生会にメンバー全員が革ジャンで来る事をボスは知らなかったボス。

マネージャーを呼びつけて自宅まで革ジャンを取りに行かせた。

ところがその革ジャンがボスの指示した物とは違うものだったらしい。

「いやボスこの革ジャンも随分かっこいいですよ。これで良いじゃないですか」
そう言ってもボスは聞かない。

「急いで持って来い!」

マネージャーが持って来た革ジャン・・・ 正直さっきとの違いはよくわからなかった、

でも未だに革ジャンに対して拘りがあることがわかった。

やっぱりCOOLSだ。いくつになってもボスはボスなんだ。

場所を移しボスがなじみと思われるクラブに入った。

「あらひろしさん。今日はどんなお集まり?」

「ママ、今日は暴走族の集会なんだよ」

そう言って笑ったボス。

夜も深まり気がついたら俺とピッピとボスの3人だけになっていた。

「そろそろ帰るか」

外に出る。

六本木の夜は寒く風が冷たい。

俺達3人は路地裏に入って並んで立ち小便していた。それはまるで悪ガキ3人組。

後ろから見たら月のあかりが照らして妙なシルエットになっているかも知れない。

「芸能人がこんなとこ見られたら…」そう思っていたら「これがホントの舘ションだな鈴木」

そう言って楽しそうに笑った。

絵になる男はションベンする姿さえカッコいい。

なお、舘ひろし脱退理由の根底にはこちらが関係していた

【クールス伝説】 舘ひろしのグループ脱退理由がえぐすぎた※鈴木康之が暴露した意図とは

オートバイ超高価買取ならバイク買取専門店パイクワン

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/4885/feed 2
岩城滉一の人生はクールスではなく結城アンナで決まっていた https://kasegublog.tokyo/archives/5655?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e5%25b2%25a9%25e5%259f%258e%25e6%25bb%2589%25e4%25b8%2580%25e3%2581%25ae%25e4%25ba%25ba%25e7%2594%259f%25e3%2581%25af%25e3%2582%25af%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25b9%25e3%2581%25a7%25e3%2581%25af%25e3%2581%25aa%25e3%2581%258f%25e7%25b5%2590%25e5%259f%258e%25e3%2582%25a2%25e3%2583%25b3%25e3%2583%258a%25e3%2581%25a7 https://kasegublog.tokyo/archives/5655#respond Sat, 04 Feb 2023 08:20:29 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5655 岩城滉一さんと言えば1981年に放送されたテレビドラマ
北の国からの草太兄ちゃん役で一躍有名になり

アッという間にお茶の間の誰でもが知る役者となった芸能人です。

今回この記事ではそんな岩城滉一さんに焦点を当て記事を書いてみました。

この記事を見ることで若かりし岩城滉一さんがどんな青春を送っていたのかが分かるようになります。

なので岩城滉一さんやクールスに興味のなる方は最後まで見てもらえればなと思います。

岩城滉一の青春時代はバイクチームクールス?

岩城滉一さんと言えばなにわともあれバイクを抜かしては語れないでしょう。

なぜなら、バイクが好きな岩城滉一さんはバイクチームクールスを舘ひろしさんと
設立することになり

当時の若者のハートを鷲掴みにしてしまったから。

暴走族が主流だった当時、突如として現れたバイクチームクールス。

黒の革ジャンに身を包みまたがるバイクはオールブラックにペイントされたハーレーやZⅡ。

ポマードでばっちり決めたリーゼントヘアにサングラス。それはそれはイカシタ連中だった。

イカシタやつらと言う意味のクールスは文字通りイカシタ連中だったのである。

クールスのメンバーの中でも岩城滉一と舘ひろしは群を抜いていた存在だった。

岩城滉一には雑誌からのオファーや東映からのオファーそしてレコード会社からのオファーが

立て続けに続く始末。クールスを設立した1974年にはすでにレコードデビューまで決まっていたとか。

岩城滉一と結城アンナの出会い

この時、岩城滉一は23歳で結城アンナは18歳だった。

舘ひろしとバイクの話で意気投合しクールスを作った岩城滉一であったがクールスのメンバーとは

所詮考えが違っていた。なぜなら、他のメンバーとは一線を画していたからだ。

それは「俺にはアンナが居る。そして生まれてくる子供もいる」ということ。

結城アンナとの同棲生活が岩城滉一の行動のすべてだったのではあるまいか。。。

岩城滉一は結城アンナと出会う前には生まれ持ったイケメンそして、アンニュイなしゃべり方で

周りにいる女の子のハートを虜にしていた。

「遊びに行けば岩城滉一の周りにはひっきりなし女の子がへばりついてきていた」などと

クールスのメンバーであるシャチョウこと梅村光男さんが証言している。

このように岩城滉一の若い頃は変な話「女には不自由はしなかった」状態だったようだ。

女の子からの貢ぎ物は高級時計に始まりハーレーダビッドソンなどもあったのだから。

そんな彼であったが結城アンナと出会ってからは今までもとは行動ががらりと変わり

「アンナ一筋」になったというのだから驚きだ。

岩城滉一さんと結城アンナさんのなり染めは「SARA」と言う喫茶店だった。

岩城滉一さんが大学生で20歳。そして結城アンナさんが16歳でモデルをしていた時だった。

岩城さんはアンナさんのことを次のように言た。

「目に入れても痛くないくらい可愛いと思った。僕は日本語以外ダメ。
その日本語も危うい位だから、ちゃんとコミュニケーション取れてないと思う。
でも、それが良かった。…僕がどれ程、度悪いことしてるかわかってないから」

そして、結城アンナさんは次のように語っていました。

「私は日本語が分からなかったので週刊誌に何が書いてあるかわからないの」

オシドリ夫婦に見える岩城滉一さんと結城アンナさんですが何度となく離婚の危機を乗り越えているみたいです。

当時の岩城滉一さんはお金が無くアンナさんからいつもお金をもらっていたようです。

「このお金で勝ってきてね」とパチンコ代を貰っていたとか。

交際が始まってから4年が過ぎた岩城滉一さんが24歳、結城アンナさんが20歳の時

二人は同棲を始めたのでした。

そして、同棲を始めてからすぐに赤ちゃんを授かることになったのです。

まぁ~今回は岩城滉一さんと結城アンナさんのなり染めについてお届けしましたが

岩城滉一さんは結城アンナさんとの出会いで大きく人生が変わったように思います。

ほかのクールスのメンバーとは背負っていたものが違ったということでしょうか?

あなたはどう思いますか?

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5655/feed 0
クールスのバイクチーム時代のメンバーを教えてください https://kasegublog.tokyo/archives/5650?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2582%25af%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25b9%25e3%2581%25ae%25e3%2583%2590%25e3%2582%25a4%25e3%2582%25af%25e3%2583%2581%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25a0%25e6%2599%2582%25e4%25bb%25a3%25e3%2581%25ae%25e3%2583%25a1%25e3%2583%25b3%25e3%2583%2590%25e3%2583%25bc%25e3%2582%2592%25e6%2595%2599%25e3%2581%2588%25e3%2581%25a6 https://kasegublog.tokyo/archives/5650#respond Fri, 20 Jan 2023 06:44:01 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5650 はいこんにちはおーちゃんです。

近頃よくこんな質問を受けます。

舘ひろしさんは元暴走族だったんですか?とか

舘ひろしさんと岩城滉一さんは若いころ不良だったんですか? などなど

舘ひろしさんと岩城滉一さんの若いころの質問なんですね。

僕はこんな質問を受けたときからなず次のように答えています。

それは舘ひろしさんも岩城滉一さんも元クールスのメンバーだったんです。と。

ということで今回はクールスのバイクチーム時代のメンバーについてのお話です。

この記事を見ることでバイクチーム時代のクールスのメンバーだった若かりし舘ひろしさんと岩城滉一さんのこと。

そして二人を取り巻くクールスのメンバーのことが分かるようになっています。

なので往年のクールスファンは見識をより深く深めてもらうとともに

舘ひろしさん、岩城滉一さんの若かりしときを知りたい方にとってはとても有益なる情報になっていると思いますよ。

それでは本題に入っていきましょう。

岩城滉一と舘ひろしの出会いが始まりだった

事の始まりは岩城滉一をしたって後輩たちが集まっていた1970年の初め

摩訶男(マカオ)というバイクチームを岩城滉一が設立をしたのである。

彼らはバイクを乗り回し原宿あたりをホームグラウンドにしていた。

そしてカフェドロペでお茶をしていた彼らのもとにオーラをまとったバンダナ男が現れた。

その男は端正な顔つきには不釣り合いな優しい声で「あのバイクは君たちの?」と話しかけたのである。

この時、岩城滉一と同席していた佐藤秀光には目の前に立っている男が自分の人生を大きく変える

存在になるとは予想だにしなかったに違いない。

いや、佐藤秀光だけではなく舘ひろし、岩城滉一そして飯田和夫というその場にいたもの全員に当てはまることだったのだ。

舘ひろしと岩城滉一はバイクの話で意気投合し一気に心と心が一つになったようだ。

なぜなら、バイクの免許を持っていない舘ひろしを自分のバイクの後ろに乗せ岩城滉一は教習所通いをしたのだから。

この時、舘ひろしは22歳で岩城滉一と佐藤秀光は21歳の時だった。そして飯田和男に至っては高校生だったのだ。

いつしか舘ひろしと岩城滉一には「カッコいいバイクチームを作りたい」という共通の想いが芽生え始めることになる。

人と人との出会いは時として運命的な出会いを演出することになるのだがまさしくこの時の舘ひろしと岩城滉一との出会いは

運命的な出会いと言えよう。

なぜなら、舘ひろしというスターの原石と岩城滉一というスターの原石が融合し、バイクチームクールスを生み出すことになるのだから。

その後、舘ひろしは再び運命的な出会いを果たすのである。

舘ひろしと水口晴幸との出会い

ヤンキー4人組に襲われていた女性を一人で救いに入っていた水口晴幸との出会いである。

舘ひろしは「喧嘩はタイマンでやれ」という信念から「1対4じゃだめだ!喧嘩はタイマンでやれ」と水口晴幸とヤンキー4人組の間に割って入ったのであった。

舘ひろしと水口晴幸の勢いに押されたヤンキー4人組は一目散に逃げ出したのである。

何事もなかったように分かれた水口晴幸と舘ひろしそして助けられた一人の女性。

この女性こそその後、水口晴幸の恋人となる「さくらさん」だったのである。

どうであろうか?この時の3人の出会いも運命的と言わざるを得ないだろう。

運命的な出会いを果たした水口晴幸はアズールのバーテンダーだったサムからジェームスを紹介される。

ピッピとジェームスの出会い…そして舘ひろしとの再会

水口晴幸はその日のうちにジェームスと意気投合。

サム、ジェームス、そして水口晴幸はお客がいなくなったアズールで朝まで
語り合っていたという。

場所を移してここは水口晴幸そうピッピが務めているオレンジカウンティである。

一階でビリヤードをジェームスとやっている時だった。

ジェームスから「なーピッピ、今から5時ごろになると思うけど一人紹介したいやつがいるんだけど時間ある?」と訊かれた。

「大丈夫だよ」と言って時間もたたないうちだった。

多くの方からヨシムラの集合管と思われるバイク音が「コーン、コーン」と聞こえてきて外で爆音となって止まった。

入口の方から真っ黒な革ジャンに身を包んだ大きな男が入ってきた。

ジェームスはすかさず水口晴幸と舘ひろしを紹介したのである。

ジェームスから紹介を受けた舘ひろしと水口晴幸はお互いに「あれ!あんときの!」と驚いた。

ジェームスが怪訝そうに水口晴幸に向かって「なんだ~ピッピはひろしを知っていたのか?」と。

それを聞いていたひろしが口を開いた。

「あんときの彼女とはどうなったのよ?」と。

「あ~そのまんま名前も聞かずに別れたよ」と少し残念そうな顔を見せたピッピだった。

しかし、運命はこの時も動いていたのであった。

ピッピと上原さくらとの再会

それはジェームスとヒデミツと一緒に歩いていた時のこと。

ジェームスがピッピにマドンナを紹介するよと言い出すと村山一海が務めるGRASSの入ったビルに店舗を構える女性向けのショップを指さした。

ちょうどその時である。店から一人の女性が出てきたのである。

ジェームスがその娘に向かって「や~調子はどう?」とアメリカスタイル。

するとその娘が「絶好調よ」などとニコニコ顔。

そしてジェームスが「ピッピ、紹介するよ」と彼女に声をかけた瞬間。

「あれ!」「あれあの時の!」とどちらともなく口を開いていた。

ジェームスは「な~んだ。ピッピはまた彼女のことも知っているのかよ。俺が紹介する人、全部知ってんだから嫌になっちゃうな~」と。

ピッピさんと上原さくらさんはこの時、再会を果たしたのです。

まとめ

以上のように舘ひろしさん、岩城滉一さん、佐藤秀光さん、ピッピさん、ジェームスさん、フランクさん、サムさんが集まり

舘ひろしさんと同じ職場でバイトをしていた村山一海さんが居た。

サムさんのアズールには連日のようにその後クールスのメンバーになる人たちが集まってきていたのである。

シャチョウ、ターベ、モガ、ナリカワ、ナカムラ、イチカワ、ゴウダ、ショウボウ、マチャミ などがいたのであった。

以上、クールスのバイクメンバーである17人が1974年12月13日の金曜日に契りを交わしクールスは結成されたのであった。

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5650/feed 0
【岩城滉一の若いころ】クールスと遠藤夏輝との関係が分かる話 https://kasegublog.tokyo/archives/5641?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2580%2590%25e3%2582%25af%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25b9%25e4%25bc%259d%25e8%25aa%25ac%25e3%2580%2591%25e3%2583%2590%25e3%2583%2583%25e3%2583%2589%25e3%2582%25a8%25e3%2583%25b3%25e3%2582%25b8%25e3%2582%25a7%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25b9%25e9%2581%25a0%25e8%2597%25a4%25e5%25a4%258f%25e8%25bc%259d%25e3%2582%2592 https://kasegublog.tokyo/archives/5641#respond Fri, 06 Jan 2023 10:26:09 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5641 この記事ではクールスにあこがれ自ら暴走族の総長を辞してまで

自分の決意を成し遂げバンドエンジェルスというバイクチームを作り上げた

遠藤夏輝さんが体験した岩城滉一さんと舘ひろしさんとの関係について

お届けしたいと思います。

この記事を読むことで岩城滉一さんと遠藤夏輝さんとの関係が分かるとともに

一般的には仲たがいしたといわれている岩城滉一さんと舘ひろしさんとの関係が
分かるはずです。

なお、この記事では遠藤夏輝さんが書き記した著書「原宿バッドエンジェルス」を参照に

史実に忠実に記事としてご紹介しております。

生々しい描写なども取り入れながら記事を書いていますので感情なども

読み取れるものだと思います。

往年のクールスファンはもちろん最近クールスに興味があるというあなたにも

大変有益な情報だと思いますよ。

なので時間の許す限り読んでもらえればなと思います。

それではどうぞ・・・

遠藤夏輝を襲撃した高木とは

いつものように俺は夜のバイト先のスタンドで仕事をしていた。

赤にペイントされたZⅡはピカピカに磨かれ仕事場の駐車場の定位置に停まっていた。

一緒に働いている学生の大塚君に話しかける。

「大塚君、今日はどっちが最初に休む?」

「僕はあとでいいから遠藤さんが先に休んでください」と。

「じゃ~そうするよ」と言いながら手を上げ
2階の事務所に向かいかけた。

その時だった!

「遠藤って奴はいるか?」と中年のおっちゃん。

「はい、遠藤は俺ですけど・・・」

「高木だ! 何でお前みたいなやつが!」

俺はすぐにその男が恵里子の父親だということが分かった。

「本当の親がいない奴。。。親の温かさが分からない奴と
ウチの恵里子が・・・」

「何!本当の親がいない奴だと!」とブチ切れた。

今にも飛び掛かる衝動をぐっと抑えた。

そこにいるのは恵里子の父親なのだから。

俺の頭には恵里子の笑った顔、怒った顔、泣いた顔が走馬灯のように流れていた。

俺の形相におののいたのか父親は・・・

「頼むから恵里子と別れてくれ。頼むから・・・」と涙ぐんでいる。

それを見て俺は・・・

「ここに来るにも相当の勇気を振り絞ってきたのだろう・・・

自分の愛娘のことを思って勇気を振り絞るだけ振り絞ってきたのだろう」と思った。

その小さな体が震えているではないか・・・

「はい、分かりました。恵里子さんとは別れます」と。

その言葉を聞くと男は踵を返したのだった。

後姿を見ながら恵里子の父親が放った言葉が蘇ってきた。

「本当の親がいないお前に何が分かる!」

なんともやるせない気持ちになっていた。情けない。悔しい。

その時だった・・・遠くの方から集合管のエキゾーストの音が「コーン」近づいてきた。

岩城滉一が思っている舘ひろしに対する本当の気持ちとは

真っ黒にペイントされたZⅡにまたがった滉ちゃんだった。

「遠藤・・・満タンで頼む」と。

ボーとしていた俺を見て滉ちゃんが言った。

「遠藤、何かあったのか?」と。

「は、は、はい・・・」

「遠藤、お前は本当にわかりやすい奴だな~」と。

「ついてこい遠藤」ということになり、俺も赤のZⅡにまたがった。

俺たちはカフェド・ロペでイチゴミルクを注文して対峙していた。

滉ちゃんにありのままを告げていた。

「な~遠藤。お前が傷つき怒るのはわかる。俺でも同じだと思う。
でもな遠藤~ 一番つらいのは恵里子ちゃんじゃないのか?
お前とお父さんの狭間に入って、そうじゃないのか?」と。

滉ちゃんのその一言で俺は自分に返った。

「そうだ~ 何が何でも恵里子を信じよう」と決めた。

「親は親だ・・・俺はプライドを傷つけられたから怒っていただけなんだ」と。

そして滉ちゃんに向かって一言。

「滉ちゃん。ありがとうございます。滉ちゃんに言われて吹っ切れました。
本当にありがとうございました」

すると滉ちゃんは安堵の顔を見せ「なら遠藤、大丈夫だな」と。

「はい、大丈夫です」と。

「そうか・・・良かった」

しばし沈黙が流れた・・・

滉ちゃんが口を開いた。

「な~遠藤、ひろし達はどんな様子だ?」

「どんな様子ってどいうことですか?」

「クールスは解散しないのかそれともどうなんだ?」

「いや、俺には内部のことはわかりませんけど
いろいろとあるみたいでボスも大変なようです」

「もう、あそこまでいちゃうと時間の問題だろう。
ひろしはバンドを解散してバイクチームだけ残せばいいんだ」と滉ちゃん。

俺がなんと答えていいのか試案に暮れていると。。。

「でもな~ひろしの性格じゃ自分が我慢して最後まで面倒見ようとするだろうけどな
だからひろしは大変になっちゃうんだよな」と。

いろいろあって仲違いのようになっている滉ちゃんだけどやっぱりクールスのこと
いや、舘さんのことが心配なんだと思った。

ということで今回は遠藤夏輝さんが書いた原宿バッドエンジェルスから

舘ひろしさんを思う岩城滉一さんの情の深さについてお届けしました。

この一連の描写を見てあなたはどう思われましたか?

それではまたご縁がありましたらお会いしましょう。

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5641/feed 0
99%の人が知らないクールスピッピとバッドエンジェルス遠藤夏輝の関係とは https://kasegublog.tokyo/archives/5403?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2582%25af%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25b9%25e3%2583%25a1%25e3%2583%25b3%25e3%2583%2590%25e3%2583%25bc%25e3%2583%2594%25e3%2583%2583%25e3%2583%2594%25e3%2581%25a8%25e3%2583%2590%25e3%2583%2583%25e3%2583%2589%25e3%2582%25a8%25e3%2583%25b3%25e3%2582%25b8%25e3%2582%25a7%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25b9%25e9%2581%25a0 https://kasegublog.tokyo/archives/5403#respond Sun, 11 Sep 2022 09:56:20 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5403  

僕のブログではクールスに憧れバッドエンジェルスを立ち上げた遠藤夏輝さんが

クールスの親衛隊となり陰ながらクールスを支えていくサクセスストーリーについて記事にしています。

今回お届けするのは遠藤夏輝さんがクールスのメンバーに次々と温かく迎えられ

認められていく中で起こった心温まる出来事です。

この記事を見ることでピッピさんと遠藤夏輝さんとの関係が分かると共にピッピさんの彼女さくらさんと遠藤さんの彼女の恵里子さんの人柄が分かるようになります。

なので、クールスファンはもとより最近クールスにちょっと興味があるんだよと言うあなたにも大変貴重な情報になっているはずです。

それでは本題に入って行きましょう。

ピッピと遠藤夏輝を待ち受けていた予期せぬ再会とは

俺とさくらは原宿は表参道を歩いていた。

カレーライスを作り終えた後さくらが「ねえ、ピッピちょっと散歩にでも行かない」というもんだから二人でぶらりと歩いてきたというわけだ。

他愛も無い話をしながら歩いていると背中に蝙蝠をまとっ多度派手なジージャンを着ている奴が前を歩いているではないか!

俺はとっさに「あ!遠藤だ!と口ずさんでいた」

「ピッピ、どうしたの知り合いなの?」とさくら。

「あぁ、いつぞや話していた遠藤夏輝だよ。ルート20のアタマをやっていた奴だ」

「暴走族を辞めてバッド・・・何だっけ?」

「バッドエンジェルスだよ」

俺はさくらに目で合図を送った後「遠藤じゃないか、こんなところでどうした?」と呼びかけていた。

驚いたように振りむいた遠藤は「あれ!ピッピさんじゃないですか!」と。

振りむいた遠藤たちに向かって「紹介するよ。俺の彼女のさくら」とさくらを紹介した。

すると遠藤は「始めまして、遠藤夏輝です。付き合っている恵里子です」と返事をした。

恵里子は深々と頭を下げながら「始めまして、恵里子です」と挨拶をした。

ピッピさんが口を開く。

「ところで遠藤、お前たちこれから何をしようと思っていたんだい?」と。

「スプレンドールにでも行って飯でも食べようと思っていたんですよ」

ピッピさんはさくらさんの方を見てから「じゃーうちに来ないか?さくらがカレーライスを作ったんだ」と。

すると遠慮ぎみに「だって二人で食べるカレーライスでしょう?俺達がお邪魔するわけにはいきませんよ」と。

「遠藤、何遠慮なんかしてんだよ。お前って結構遠慮深いんだな~。
いいからそんな遠慮は」とさくらの方を向いて合図を送った。

するとさくらさんが「大丈夫よ。沢山作ったからたべにきてちょうだい。いいでしょ恵里子さん」と。

さくらの言葉にその気になったのか遠藤夏輝は恵里子に視線を送って「恵里子どうする?さくらさんも誘ってくれているから」と。

恵里子の眼は「遠藤君に任せる」と言った。

ピッピさんとさくらさんとの愛の巣は東郷神社のすぐそばのマンションだった。

さくらさんが手際よくカレーライスを用意してくれたので自然体で頂くことができた。

ピリッとしたカレーライスは美味しくお替りをしてしまうほどだった。

ピッピさんに誘われてリビングに移った俺はオールディーズのレコードを聴きながら余韻に慕っていた。

「ピッピさん、いいすね^俺もこんな生活に憧れますよ」などと口ずさんでいた。

恵里子とさくらさんは食事のあとかたずけをしながら二人で和気あいあい話している。

さくらさんは俺達よりも一つ年上だから恵里子からすれば一つ違いのお姉ちゃん的な存在なのだろう。初対面とは思えないほどほほえましい会話がなされているようだった。

「遠藤、彼女とうまく行っていないのか?」とピッピさん。

「いえ、恵里子とはうまく行っているんですよ。でも恵里子のご両親が猛反対しているんで・・・。でも当たり前ですよね。俺みてえな不良ですから」と言っていた。

するとピッピさんが「不良って言うのは関係ねーよ。俺だって不良だからな」と。

そんなやり取りをしながら俺は「ピッピさんなら何でも相談できるな~」と思っていた。

そして、「ピッピさん、俺この間、舘さんに迷惑を掛けちゃったんですよ」と。

「あ~ガンさんのことだろう。サムから聞いたよ。遠藤お前、大将に詫びを入れに行ったんだろう」と。

「はい、舘さんには俺なりに謝っておきました」

「大将はお前のこと、律儀な漢だとほめていたぞ」とピッピさん。

「え!本当ですか?」

「あぁ~大将は済んだことをどうのこうのいう人じゃないんだ。だからもう済んだことをいつまでも引きずってんじゃねーぞ」と。

「はい分かりました」

俺は舘さんが何かグループの中で引きずっているものがあるのだということを感じていたがそれ以上はピッピさんには言えなかった。

なぜなら、グループ内でどんなことが起こっていようがピッピさんが居るんだし、俺みてえな新参ものが口を出すことじゃないと思ったからだ。

その後はピッピさんとさくらさんの温かさに包まれあっという間に時間が過ぎて行ったのであった。

ということで今回はこの辺で失礼します。

 

 

 

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5403/feed 0
クールスメンバー舘、岩城、水口のそれぞれのオヤジは師匠だったとは? https://kasegublog.tokyo/archives/5405?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2582%25af%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25b9%25e3%2583%25a1%25e3%2583%25b3%25e3%2583%2590%25e3%2583%25bc%25e8%2588%2598%25e3%2580%2581%25e5%25b2%25a9%25e5%259f%258e%25e3%2580%2581%25e6%25b0%25b4%25e5%258f%25a3%25e3%2581%25ae%25e3%2581%259d%25e3%2582%258c%25e3%2581%259e%25e3%2582%258c%25e3%2581%25ae%25e3%2582%25aa https://kasegublog.tokyo/archives/5405#respond Sat, 10 Sep 2022 05:01:58 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5405 今回お届けするのはクールスのメンバーの中で特別異彩を放っていた3人を取り上げます。
こ記事事を見ることで「あ~そうだよな。そんな見方もあるよな~」と3人の共通点が分かってもらえると思います。

なので、往年のクールスのファンはもちろんのこと最近クールスに興味があるんだよねと言うあなたにもぜひ見てもらいたい記事となっていると思いますよ。

クールスと言えばこの3人のメンバー

 

今回登場していただくクールスメンバーと言うのはクールスメンバーの中で情に熱く自分のことはさておき「え!そこまでしてやるの」と驚きを隠せないぐらい突っ込んで人を助けてしまう漢の中の漢、水口晴幸さん、そうピッピさん。

次はクールスが幾度となく潰される危機に直面するもこの人のネームバリューと人脈の凄さからクールスを救ってきた陰のドン。岩城滉一そう滉ちゃん。

そして、最後に控えしは持って生まれたスター性と祖父、そして父親と生粋のイギリス通という家庭で育ったハイソサイアティに培われたハイセンスを武器にクールスと言うバイクチームを今までにないスターダムへとのし上げた舘ひろし、そうボスである。

この3人に共通してあるもの。そして他のクールスメンバーにはないものとはいったい何だろう?

その答えを導き出してくれるものは「映画」である。

舘ひろしさん、岩城滉一さん、水口晴幸さんはいずれも映画に出演して自分の進むべき道を切り開いて行ったのである。

クールスの他のメンバーでも映画には出演するも自分の道を切り開いていったとは言えない。
それはいったいなぜなんだろうか?

それは師と仰ぐ恩師に出会えて居ないということである。

一方、舘ひろしさんは渡哲也さん。岩城滉一さんは安藤昇さん。水口晴幸さんは勝新太郎さんと生涯、オヤジと呼べる師との出会いを果たしているということだ。

舘ひろしさんと渡哲也さんとの出会いは西部警察の共演からであった

自分みたいな青二才に対してもわけ隔たりなく紳士的な対応をしてくれた渡哲也という人間にほれ込み「この人に付いて行こう」と俳優の先輩として、人生の師として心酔して行った舘ひろしさん。

石原軍団に入社した後は石原裕次郎さんが社長というのに「俺は石原さんではなく渡さんの背中しか見えない」などと気持ちは渡一筋であった。

石原裕次郎が亡きあとは渡哲也の右腕として石原プロの屋台骨の一角となり、東北大震災での炊き出しなど社会的貢献にも熱心に務めたのである。

体調を崩し天国に召された渡哲也の遺志を継ぎ、舘プロを立ち上げ「大それたことはできないけど石原裕次郎、そして渡哲也が成し遂げられなかった映画を作ってみたい」と言っている。

岩城滉一さんと安藤昇さんとの出会いは岩城さんが中学生時代

岩城さんが出入りをしていた安藤組はすでにヤクザ組織の東興業ではなく安藤企画という芸能事務所の時代だったようだ。

若い岩城滉一の才能を見込んだ安藤昇は岩城が映画に出る進むべき道を用意していた。

「うちに若いので素質のある奴が居る。岩城という若い衆を使ってくれ」などと「ツルの一声」を東映やら脚本家に向けて発信。

ずば抜けた力は映画界までも席巻して行ったのである。

安藤昇の気持ちとは裏腹に岩城滉一の素行はすこぶる悪く、ついには覚せい剤取り締まり法違反で警察にパクられてしまう。

ギリギリのところで、執行猶予判決を勝ち取り警察での身柄拘束から解放された岩城滉一は記者に囲まれ「今の気持ちを一言?」とコメントを求められると
「シャブをやってないが悪い!」と悪ぶって見せた。

岩城が放ったこの一言が世間の反感を買い、岩城の復帰は危ぶまれることになった。

しかし、こんな素行の悪い岩城滉一を安藤昇は見捨ててはいなかったのである。

またまた、安藤昇のツルの一声が脚本家の倉本聰に飛ぶのであった。

そして、岩城滉一は生涯忘れることができない一生の仕事「北の国から」との出会いを果たすのである。

水口晴幸ピッピと勝新太郎との出会いは?

そして最後に登場してもらうのは水口晴幸ピッピさんだ。

ピッピさんと勝新太郎さんが出会ったのはピッピさんがクールスを脱退した1981年あとと推測される。
クールス時代にニューヨークでのレコーディングで知り合いになった山下達郎からの紹介でピッピさんと勝新太郎さんは出会ったのである。

初対面だというのに勝新太郎は「お前今日の夜は暇か?」とピッピさんを誘い、銀座で飲んだのだった。意気投合した二人はその後、よなよな銀座に足を運ぶことになる。
当時付き人をやっていた川谷拓三さんは勝新太郎さんのことを「シャチョウ」と呼んでいて、一度たりとも「オヤジ」などとは恐れ多くて呼べなかったと言っている。

しかし、ピッピさんときたら川谷拓三さんを先おいて「オヤジ」と呼んで人生の師匠と位置付けてしまったのである。

勝新太郎さんはピッピさんの役者としての才能を見出し、自らが脚本をし主演、監督を果たしたテレビドラマ警視-Kにピッピさんをレギュラーとして抜擢したのであった。

それ以来の二人はいつも一緒に行動し、夜は夜で朝まで飲み歩くという公私ともの付き合いを果たすのであった。

まとめ

舘ひろしさん、岩城滉一さん、水口晴幸さんにはそれぞれオヤジと慕える師匠がいたことが

その後の人生において大きな影響を及ぼしている。

もし、彼らもクールスのほかのメンバーと同じように師匠と出会っていなかったら

今の彼らの存在を芸能界に見出すことはなかったかもしれない。

あなたはどう思いますか?

よかったらコメントを残してください。

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5405/feed 0
クールスの舎弟になった遠藤夏輝の若い頃「一歩間違えれば警察沙汰」 https://kasegublog.tokyo/archives/5399?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e9%2581%25a0%25e8%2597%25a4%25e5%25a4%258f%25e8%25bc%259d%25e3%2581%25ae%25e8%258b%25a5%25e3%2581%2584%25e3%2581%2593%25e3%2582%258d%25e3%2580%258c%25e4%25b8%2580%25e6%25ad%25a9%25e9%2596%2593%25e9%2581%2595%25e3%2581%2588%25e3%2582%258c%25e3%2581%25b0%25e8%25ad%25a6%25e5%25af%259f%25e6%25b2%2599%25e6%25b1%25b0%25e3%2580%258d https://kasegublog.tokyo/archives/5399#respond Thu, 08 Sep 2022 03:35:51 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5399 はいこんにちはおーちゃんです。

ご拝読いただきありがとうございます。

僕のブログではクールスの舎弟として親衛隊を務めたバッドエンジェルスの総長として指揮を執っていた遠藤夏輝さんの青春時代を取り上げお届けしております。

遠藤夏輝さんの青春時代と言えば東京工業高校で3000人の不良どもをまとめ上げていた総番長として君臨し、先生の頼みからなんと風紀委員長までやっていたという数奇な人生を送っていた御仁。

今回お届けするのは遠藤夏輝さんの高校生の時の修学旅行の話です。

東は国士館西は北陽と言われるほどの超ド級の西の愚連隊高校北陽高校とのあわや乱闘という瀬戸際のお話です。

修学旅行と言えば一生に一度の一大イベント、あなたも思い出があるのではないでしょうか?
東京工業高校の総番長として遠藤夏輝を待っていた修学旅行はどんなものだったのでしょうか?
この記事を見ることで遠藤夏輝さんの修学旅行がどんなものだったのかが分かると共に

あなたの修学旅行が思い出されると思いますよ。

東京工業高校・遠藤夏輝の修学旅行とは

俺達の修学旅行は当時定番だった九州旅行だった。

東工は生徒数が多かったので2回に分けて行っていた。

電気科と建築科とが合同。そして機械科は生徒数が多かったことから単独だった。

旅行の前には担任から色々と注意事項が言い渡されていた。

その上、生活指導の先生からは「絶対に喧嘩はするなよ」と厳しく念を押されていた。

言われている時は「仰せの通り」なんて振りをしているがその場になったら分からない。

だから先生たちは口が酸っぱくなるほど言っていたのだ。

先生からの言葉が成果を出したのだろうか、大分や福岡では平穏無事に日程を消化していた。バスガイドのお姉さんも綺麗なうえ気さくで本当にラッキーだった。

ガイドの説明を聞きながら「ここが宮崎の日南海岸か」などと、浮かれるほどだった。

しかし、俺達ツッパリはいまいち刺激が無いのでそこかしこに居るツッパリが気になってしょうがなかった。

北洋高校との衝突は避けられたのか?

「北洋高校だ!」などと生活指導の先生に緊張が走る。

「いいか、お前ら、絶対喧嘩なんかすんなよ」と口を真一文字に結んだ。

大阪の北陽高校と言えば東京にまでその名を轟かせていたツッパリの有名高校だ。

東の国士館、西の北陽と呼ばれるように世間に知られていたのだった。

北陽の連中は生徒のほとんどがリーゼントに中ランにボンタンと決っていて流石だなっと思えるほどだった。

南国らしいフェニックスが植えてある公園を石川や柏木達数人で歩いていると

前方から歩いてくる一団があった。さっきの北陽の連中の残骸だった。

鋭いガンを飛ばしてくるが俺達東工の一団も負けじとガンを飛ばし返す。

お互いがお互いの力量を探るけん制だけに終わった。

北陽の連中は気にはなっていたが俺は石川と柏木とフェニックスを背景に写真を撮っていた。
するとツッパリの仲間の一人が血相を変えて吹っ飛んできた。

「遠藤、ヤバいぜ。北陽の連中とやりそうだ」と。

「北陽の連中はどこだ!案内しろ!」とギアが入った。

現場に行くと30人くらいの団体がにらみ合い、対峙していた。

俺は居並ぶ仲間の間をすり抜けど真ん中に立ち、北陽の中央に位置している番長らしき野郎に鋭い視線を投げつけた。

ここに東西のツッパリの決闘、日南海岸の決闘が今幕を開けようとしていた。

お互いにじりじり近寄りながら「お前らどこの奴や!?」と。

北陽の番長らしき奴が啖呵を切ってきた。

俺は腹の底から「テメーらこそどこだ!」

北陽だとは言っていたが先に名乗るのが順当だろうと思っていた。

「なんやワレ~!ワシらは大阪の北陽高校や、文句あったらかかってこんかい!」

独特な関西弁の言い回しに俺は完全に切れた。

「上等じゃねえか、東京工業だ!」

拳に力が入り、思いっきり全身が硬直。

戦闘態勢に入った瞬間だった。

「コラあ~!お前たち何やってんだ!」と担任と生活指導が吹っ飛んできた。

東工の先生たちだけでは無かった。

北陽の先生とみられる数人も飛んできて北陽の連中に向かった「お前達、退学になりたいのか!手を出したらただじゃおかんぞ」と。

「遠藤止めろ!こんなところで喧嘩なんぞしてどうすんだ。皆を散会させるんだ」と。

一度、全身を駆け抜けてしまった喧嘩ドーパミン。直ぐには収まらないのは当たり前。

「あいつら次第だ!」と思っていた。

北陽の連中も俺たちと同じで、一向に引き下がろうとはしていなかった。

ガタイの良い先生らしき男が北陽の生徒を叩き始め、少しづつであったが北陽が散会し始めて行った。

北陽が散会していくのを見て俺は総番長としてまた、風紀委員長として散会を告げたのであった。

俺の隣の石川と柏木は頭に血が上っていたのかまだ顔が硬直していた。

俺は二人に声を掛け、何事も無かったようにその場を離れた。

ということで今回はこの辺で失礼します。

いかがでしたか?

修学旅行の思い出、あなたも当時のことが蘇ってきたのではないでしょうか?

それにしてもですね~

遠藤夏輝さんの場合はツッパリのプライドとプライドとのぶつかり合いという感じだったんでしょうね。

しかし、あのまま喧嘩になっていたらどうなったんでしょうか?

北陽高校の先生が言っていた「お前ら退学になりたいのか」と言うように東工でも退学処分になったのかもしれませんね。

 

 

 

 

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5399/feed 0
クールス結成に寄与したメンバー|サム、ジェームス、ピッピとは https://kasegublog.tokyo/archives/5401?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2582%25af%25e3%2583%25bc%25e3%2583%25ab%25e3%2582%25b9%25e7%25b5%2590%25e6%2588%2590%25e3%2581%25ab%25e3%2581%25af3%25e3%2581%25a4%25e3%2581%25ae%25e3%2582%25ad%25e3%2583%25bc%25e3%2583%259d%25e3%2582%25a4%25e3%2583%25b3%25e3%2583%2588%25ef%25bd%259c%25e3%2582%25b5%25e3%2583%25a0%25e3%2580%2581%25e3%2582%25b8%25e3%2582%25a7 https://kasegublog.tokyo/archives/5401#respond Mon, 14 Mar 2022 06:14:57 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5401 はいこんにちはおーちゃんです。

ご購読ありがとうございます。

僕のブログでは舘ひろしさんと岩城滉一さんが青春の真っただ中、アメリカングラフィティに憧れイージーライダーに代表されるチョッパーのバイクに魅了されるがまま作り上げたバイクチームクールスについて史実に忠実に記事としてお届けしております。

今回お届けするのはクールスの成り立ちについてどのようにしてメンバーが集まって来たのか、いくつかの流れがあるので分かりやすく解説していきます。

この記事を見ることでクールスの成り立ちの流れが分かると共にクールス結成にあたってキーパーソンになった何人かのクールスメンバーが居たことが分かるようになります。

なので、クールスファンはもとより最近クールスにちょっと興味があるあなたにも見てもらえればなと思います。

それでは本題に入って行きましょう。

クールスメンバーサムはアズールでバーテンを

まずはクールスの成り立ちの中でこの人を抜かしたら語れないという重要な人はサムさん。

サムさんは実名は久木好文と言い、乃木坂にあったアズールでバーテンダーのバイトをしていました。

遠藤夏輝さんが書き記した原宿ブルースカイヘブンでは熟練したバーテンダーとして描かれていますが、アズール前の職歴だとかアズールオーナー山口洋子との関係などは書かれていません。

原宿ブルースカイヘブンで描かれているサムさんはジェームスさんをピッピさんに紹介する場面で描かれています。

ピッピはサムに向かって「いつもの奴」とオーダーをした。

出てきたハーバーのダブルのロックを一口飲んだピッピはサムに向かって口を開いた。

「サム、昼間電話で言っていた面白い奴って言うのはまだ来てないのか?」と。

「そろそろステージに登場するよ」

「ステージって弾き語り?」サムは無言でうなずいた。

ハーパーのオンザロックを飲み干し2杯目をオーダーしようと思ったときその男はステージに現れた。

アルカポネを彷彿させるようなギャングスーツに身を包んだその男は白人そのもので日本人では出せない雰囲気を醸し出していた。

男はステージにあるスツールに腰を下ろすとお客がまばらな店内を見渡すといきなり歌いだした。
俺はあっけに取られてしまった。

なぜなら、白人が歌いだしたのはクールファイブの「そして神戸」だったから。

ギャングスーツを着た白人が歌うのにはギャップがあり過ぎる歌だったのだ。

次に歌った歌もクールファイブのナンバーだった。

その後も演歌を歌って30分のステージが終わり、控室に姿を消した。

サムが口を開いた。

「ピッピそのうち、こっちに現れると思うから紹介するよ」と。

すると後ろから「サム、コロナを一本空けてくれ」と。

「ジェームス、お疲れ、この前話していたピッピ」

サムはキャップを空けたコロナをジェームスに渡すと、美味しそうに一気に飲み干してしまった。

「ジェームスっつんだ。よろしく」

「聞かしてくれるじゃん、ヨロシク」と。

俺達はどちらからともなく握手を交わしていた。

「サム、俺のおごりでジェームスに何かやってよ。それからこれお替り」と。

以上のようにサムについては書かれれているのです。

アズールが紹介の場になってクールスのメンバーになったのはピッピさんだけだったのだろうか?
舘ひろしさんや岩城滉一さんもアズールに出入りしていたというのは原宿ブルースカイヘブンでも紹介されている。

アズールがメンバー達の顔合わせの場になったのは確かな事実なようだ。

次にメンバーたちの出会いの場になったのはディスコ・ビブロスと言っていいだろう。

ビブロスは大久保喜市の青春でありクールスメンバーの出会いの場所

大久保喜市が書き記したストレンジブルーの中ではビブロスでの体験が生々しく書き記されている。

夜な夜な刺激を求め、女を求め足しげく通っていたビブロス。

クールスのメンバーになる以前の大久保喜市の生きざまはビブロスにあったと言っていいほど、どっぷりとビブロスにハマっていた進むべき道を見失っていた青春時代。

ビブロスには後にクールスのメンバーになるジェームス、佐藤秀光、村山一海、フランク

シャチョウ、サム、ターベなどなどメンバーがたむろし、大きな流れを作り始めようとしていたのである。

当時のディスコは男と女が出会う格好の社交場所になっており、有り余る情熱やら性欲やらをぶつける絶好の場所になっていた。

次にクールスのメンバーの出会いの場所となっていたのは舘ひろし、村山一海が働いていたGRASSと言っていいだろう。

GRASSに集まるクールスメンバーと舘ひろしと村山一海

当時のGRASSと言えば、ファッションリーダー界のリーディングカンパニー的な位置づけになっており最先端のファッションが手に入るお店になっていた。

「女にもてたい」という感情を満たしてくれるのはGRASSにある「まぶいコーデ」たち。

GRASSに足を運んでいた連中が自然に話をするよになり、大きな潮流がそこに生まれて行った。そこには岩城滉一やら矢沢永吉の顔もあったほどだ。

そして、いよいよ岩城滉一と舘ひろしが動き出してクールス結成の1974年12月13日を迎えることとなったのである。

ということで、今回はクールスのメンバーの出会いの場所になったアズール、ビブロス、GRASSにまつわるお話をしました。

 

 

 

 

 

 

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5401/feed 0
岩城滉一の若い頃と今現在|私の履歴書 https://kasegublog.tokyo/archives/5390?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e5%25b2%25a9%25e5%259f%258e%25e6%25bb%2589%25e4%25b8%2580%25e3%2581%25ae%25e8%258b%25a5%25e3%2581%2584%25e9%25a0%2583%25e3%2581%25a8%25e4%25bb%258a%25e7%258f%25be%25e5%259c%25a8%25ef%25bd%259c%25e7%25a7%2581%25e3%2581%25ae%25e5%25b1%25a5%25e6%25ad%25b4%25e6%259b%25b8 https://kasegublog.tokyo/archives/5390#respond Thu, 10 Feb 2022 04:23:37 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5390  

僕のブログでは1970年代という激動の時代を黒の革ジャンに身を包みそのカッコ良さと話題性でたちまち時代の寵児へと上り詰めたバイクチームクールスについて記事としてお届けしております。

当時クールスにどんなことが起こりクールスのメンバー達がどんなことを思い、立ち向かって行ったのかを事実に忠実にを前提に記事にしております。

今回取り上げるテーマは当時のクールスにはこの人が居なかったらどうにもならなかったであろう人物、岩城滉一さんについて取り上げたいと思います。

クールス時代の若き頃の岩城滉一さんと今現在の岩城滉一さんについてのお話です。

題して「岩城滉一の若い頃と今現在」です。

この記事を見ることで岩城滉一さんの見識が深まること請け合いですよ。

なので時間の許す限り見てもらえればなと思います。

岩城滉一のモテぶりと舘ひろしの出会い

まずは岩城滉一さんを語るにはやはり舘ひろしさんとバイクチームクールスを作った若い頃から取り上げなければならないでしょう。

岩城滉一さんは若い頃からその端正な顔立ちとセンスの良さで女の子がほっておかなかったようです。

中学2年生の時にはすでに年上の先輩女性の家にひも的に入りびたっていたり、高校生の時にはモデルの娘の部屋で同棲をしていたりと、それはそれは男冥利に尽きる生活をしていたようです。

高級時計は買ってもらうは、挙句の果てにはハーレーまで買ってもらったとか。

全ては岩城滉一さんのイケメンでカッコいい、そしてアンニュイなしゃべり方で周りにいる女の子をふにゃふやにしてしまっていたということでしょう。

舘ひろしさんと運命的な出会いを果たした岩城滉一さんは自分がリーダーにはならず、舘ひろしさんをリーダーに据え、自分は陰に隠れるという選択肢を。

元来、「俺が俺が」というタイプではなかった岩城滉一さんと言ってしまえばそれまでですが、岩城さんには岩城さんなりのアンテナが働き「自分がリーダーになるよりひろしがリーダーになる方がいい」と判断したのでしょう。

なぜなら、クールスを作る以前から色々なところからお声がかかっていた岩城滉一さんだったから。

バイクに乗っている姿がいろいろなメディアにとまり、オファーがいろいろとかかり始めていた頃だったのです。

なので、リーダーという重責は担えないと判断したのだと推測されます。

岩城滉一さんは野生の臭覚みたいなところがあり、感覚で「リーダーなんかやっている場合じゃないな」と判断したのかもしれません。

岩城滉一さんと舘ひろしさんの性格の違い

岩城滉一さんが野生の臭覚を持ち合わせているとすれば、舘ひろしさんは理詰め行くタイプのように思われます。

舘ひろしさんが理詰めで行くタイプと言うのを立証した出来事がありました。

立証した出来事と言うのはバンドクールスが初めてのレコーディングに臨んだ時のこと、

キングレコーに赴きお昼をねだった時のことです。

キングレコードの担当、佐々木寛さんに「お昼は鰻の上にしよう」とおねだり。

佐々木さんはしぶしぶバンドクールスのメンバーとスタッフのクールスのメンバー分の鰻を注文することになったのですから。

舘ひろしさんはリーダーとしてクールスのメンバーに鰻を食べさせたいと思って、おねだりを決行したとか。

佐々木寛さんに対してのおねだりは理詰めで考えた上での勝算があってのことだったようですから。

キングレコードで鰻の上をおねだりするエピソードに関しては水口ピッピ晴幸のKeep on rollin’でピッピさんが以下のように言っていました。

「だって大将はとんでもない事でも通しちゃんだもんね。だってそうだろう。キングに行った時だって佐々木君にメンバー全員に鰻を食べさせてくれないか」等と言っちゃてさーって。

岩城滉一さんは舘ひろしさんの性格を読んだうえでリーダーにさせたのかもしれませんね。

岩城滉一さんのクールスでの活動はキャロルラストコンサートを最後に終焉を迎えます。

岩城滉一さんは自分が映画やら歌手やらで忙しくなることを予想していたのかもしれません。クールスのメンバーが居るも溜まっていたレオンから足が遠のいていった岩城さん。

岩城滉一のクールスからの脱退

玉川雅已さんを連れ立って東映の映画の収録に望みます。

一度流れ出した水は元のお椀には戻れません。

岩城滉一さんの歩む道はクールスとは違う道を選んだのです。

クールスを脱退するという表明はしていませんでしたが、実質上の脱退をした岩城滉一さん。
安藤昇さんに見いだされた岩城さんは映画の道に没頭し、倉本聰脚本の「北の国から」に出演を果たすことになるのです。

後のインタビューで岩城滉一さんは「僕にとって北の国からは特別な作品だったんです。北の国からに出演したことで俳優人生、そして人生そのものが変わったんです」と。

北の国からに出演する以前は覚せい剤取り締まり法違反と銃刀法違反で身柄拘束を受け、刑務所にまでは行かないまでも有罪となり、執行猶予処分になった岩城さん。

反省など全然見せないで、「覚せい剤をやって何が悪い」などと世間を仰天させていた。クールス時代の岩城滉一を知っている世間の人たちは「やっぱり岩城滉一は暴走族だったからしょうがねーよな」とか「クールスに居たんだから不良だから」等と思われたようですね。

不良まっしぐらだった岩城滉一さんが北の国からの出演をきっかけに「本腰で俳優業をやるようになった」ということなんですね。

オートバイ超高価買取ならバイク買取専門店パイクワン

岩城滉一の今現在は「北の国から」から始まった

70歳になった今現在YouYubeチャンネルをやりながら人生の終活をしている岩城滉一さん。

人生を変えてくれた北の国からの出演。ついには北海道移住計画を発表。

いくつになっても大胆さは持って生まれたものなのだろうか?

一度きりの人生。岩城滉一さんは「俺の人生は最高だった」と死ぬ前に言えるように・・・

やりたいことはやるスタンスでいるんですね。

最近のニュースでは世界に61台しかない世界最先端のオートバイ「P51コンバットファイター」を買い、インタビューを受けている岩城さん。

印象的だったのは映画トランスフォーマーに出てきオートバイに跨り「いいでしょう」と言っていた笑顔が正に子供そのもの。

いつまでもいつまでも子供のような岩城滉一さんですね。

ということで、岩城滉一さんの二つの履歴書ということでお伝えしてきました。

それにしても北海道移住は結城アンナさんはどうされるんでしょうか?

一緒に行くのか行かないのか気になるところですよね。

最後まで見ていただきありがとうございました。

それでは次の記事でまたお会いしましょう。

おーちゃんでした。

ではまたバイバイ。

オートバイ超高価買取ならバイク買取専門店パイクワン

 

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5390/feed 0
テレ東で放送している韓流ドラマをただで見る方法※「愛はビューティフル、人生はワンダフル」など https://kasegublog.tokyo/archives/5420?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e6%2584%259b%25e3%2581%25af%25e3%2583%2593%25e3%2583%25a5%25e3%2583%25bc%25e3%2583%2586%25e3%2582%25a3%25e3%2583%2595%25e3%2583%25ab%25e3%2580%2581%25e4%25ba%25ba%25e7%2594%259f%25e3%2581%25af%25e3%2583%25af%25e3%2583%25b3%25e3%2583%2580%25e3%2583%2595%25e3%2583%25ab%25e3%2582%2592%25e7%2584%25a1%25e6%2596%2599%25e3%2581%25a7 https://kasegublog.tokyo/archives/5420#respond Tue, 08 Feb 2022 07:37:23 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5420 「え!何で録れてないんだ!?」テレビのリモコンを握る手に力が入る。

楽しみにして早朝バイトから自転車を飛ばしながら帰って来たのに。。。

全身から一気に力が抜け落ちていく。。。

「最悪の日だ!なんていう日なんだ!」悔やんでも悔やんでもビデオは録れていない。

季節外れの爆弾低気圧が原因で起きた磁気の乱れで受信ができなかったらしい。

この記事ではどん底に落とされたぼくが起死回生の一発逆転劇をした裏技を紹介しています。
録り損ねた「愛はビューティフル、人生はワンダフル」をどんな方法で見たのか?

知らななきゃ損しちゃうし、知っていればとても重宝する方法なので良かったら最後まで見てください。

注)本ページの情報は令和4年2月時点のものです。
最新の配信状況は U-NEXT サイトにてご確認ください。

愛はビューティフル、人生はワンダフルを無料で見る裏ワザ

結論から先に言っちゃいますね。

U-NEXTに会員登録をして31日間無料トライアルを利用して「 愛はビューティフル、人生はワンダフル」を見る方法です。

見た後に31日のトライアル期間であれば解約をして退会しても何ら料金は発生しないので、結論的には「 愛はビューティフル、人生はワンダフル」を無料で見たということ。

U-NEXTの31日間無料トライアルを利用すれば「 愛はビューティフル、人生はワンダフル」だけではなく約17万本の動画の中から何でも好きなものが見られます。

今回どん底に落とされた僕が起死回生の一発逆転劇を起こした裏ワザとは

U-NEXTに会員登録をして31日間無料トライアルを利用して「 愛はビューティフル、人生はワンダフル」を無料で見るという裏ワザだったんです。

裏ワザを使ってみる

U-NEXTってどんなサービスなの?

 

U-NEXT2009年から動画配信サービスを手掛けており、日本では最大手の動画配信となっているようです。

何と動画数は23万を保有しており、見放題のほか新作動画が次々と追加しているとのこと。

その他、雑誌は多くのアイテムがありこちらもなんでもみられるとのこと。

新作動画は有料となりますが、会員になると一か月に1200ポイントをもらえるようです。

なので、とりあえず会員登録をして無料トライアルを使ってみて、良ければ会員になればいいし、だめなら無料トライアルだけで解約をしてもいいと思います。

他のVODサービスでは一か月間無料って言うのではなく14日間だとか期間が短いようです。

運営期間が長い分、色々と口コミも多いU-NEXT。

自分でいろいろ調べるのが一番と思いますので、「U-NEXT 口コミ」で検索してみてください。
いろいろと調べたうえで、ご自分で体験をして見るのが一番だと思いますよ。

まぁ~何かの参考になればと思い、僕が調べた特徴を載せておきます。

トライアルを体験してみる

U-NEXTの特徴とは

 

一番の特徴としては動画配信サービスでは最も多い22万本の作品が配信されているところかな。映画からはじまり、ドラマ、アニメまで配信しているんですよ。

その上、雑誌や漫画も楽しめるというところかな。

U-NEXTのメリット

メリットとしては次の通り。

31日間の無料トライアルが体験できる

動画配信サービスで業界最多の22万本

最新作は一か月に1200ポイント貸与を利用できる

150種類の中から最新の雑誌が読み放題

今話題の漫画が無料で読める

動画をダウンロードできるのでオフラインで視聴できる

 

U-NEXTのデメリット

月々の料金が2,189円で他の動画配信サービスより高いかな。

でも、これについては毎月1,200ポイントもらえるのでチャラ。

次のデメリットは海外ドラマは有料動画が多いかな。

U-NEXTにはオリジナルコンテンツがないのが残念。

Netflixのイカゲーム、Amazonプライムビデオのドキュメンタルみたいなもの。

オリジナルコンテンツというのは需要をもとに作り込まれているので、大人気なもの。

それが無いのはネックかな。

しかし、メリットとデメリットを足し算、引き算して・・・

どうなのかを判断するのはあなた…ですから。

誰がなんだかんだ言ってももわからないもの。

動画を録画できなくってどん底に落とされても「まぁ~いいや、しょうがない」とあきらめられる人にはおススメできませんが、録り忘れても「絶対見たい」と言うあなたにはおススメなサービスですよ。

最後になりますけど、無料会員登録の特典として140,000本の動画見放題と600ポイントの貸与があるそうですよ。

U-NEXTの公式サイトを見る

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5420/feed 0
遠藤夏輝の「不良少年」時代とは?劇作家の感性は若き頃に磨かれた? https://kasegublog.tokyo/archives/5360?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=%25e3%2580%2590%25e9%2581%25a0%25e8%2597%25a4%25e5%25a4%258f%25e8%25bc%259d%25e3%2581%25ae%25e8%258b%25a5%25e3%2581%258b%25e3%2582%258a%25e3%2581%2597%25e9%25a0%2583%25e3%2580%2591%25e3%2583%2584%25e3%2583%2583%25e3%2583%2591%25e3%2583%25aa%25e3%2581%25af%25e3%2583%2587%25e3%2582%25a3%25e3%2582%25b9%25e3%2582%25b3%25e9%2580%259a https://kasegublog.tokyo/archives/5360#respond Sat, 08 Jan 2022 07:26:06 +0000 https://kasegublog.tokyo/?p=5360 僕のブログでは今や芸能界で立派にやっている劇作家であり脚本家の遠藤夏輝さんの若かりし頃のクールスとの関わり合いを追っかけて記事としてお届けしております。

今回お届けするのは遠藤さんがツッパッテいた頃の遊びとファッションについて遠藤さんの書き記した著書「不良少年伝説」の中からお届けします。

この記事を見ることで当時の遠藤夏輝さんの若い頃の様子が分かると共にその時代にはやっていた洋楽が分かるようになります。

遠藤さんの体験した青春時代を聞きながらあなたの思い出を思い出してみてください。

古き良き時代の昭和が一瞬で蘇ってくると思いますよ。

それでは早速本編に入って行きましょう。

遠藤夏輝のツッパリはディスコ通いとファッションの最先端

disco

練馬の中学校から相模大野に転向し、高校3年間を相模大野で過ごした俺は1年生のころからディスコにハマって行った。

小田急線の鶴間って言うところに「シルバー・スワン」というディスコがあって土曜日の夜になると先輩といつも通っていた。

近くに米軍基地があったことからきている客はほとんどが黒人で踊りと言ったらソウルそのもの。かかる曲は最先端の曲ばかり。

「シルバー・スワン」は東京でも有名で都内でディスコで働いている者やディスコフリークを自称しているものは挙って踊りを盗みに通っていた程だった。

アフロヘアの黒人が躍っている姿は特別で彼らの踊りをマスターしようと必死になっていた。なんで?っていうと・・・

それは当たり前だけど、踊りが決まっていれば女の子がついて来るから。

躍起になって俺は踊っていた。

黒人と一列になって同じステップを踏んでいた。

俺をいつもディスコに誘っていた先輩はステップをマスターして女を何人仕留めたことか?
「おい、遠藤、今日も踊りに行くぞ!」と繰り出していた。

勝負服は玉虫色のコンポらスーツだったのを覚えている。

俺達は最先端のファッションを着込んでいたが、中にはボンタンを履いた連中も居た。

でも、ボンタン組は女の子から避けられていた気がする。

当時はやっていた曲はいろいろあったけど・・・今思いだせるのは次の曲だよな~

ジェームス・ブラウンのアイ・ガット・ユー

コモドアーズのマシンガン

スティービーワンダーの迷信

スリーディグリーズの天使のささやきなどなど

付き合っていた女の子のお気に入りの曲で楽し気に踊っている光景が蘇ってくる。

シュープリームスのストップ・インザネームオブラブ

渋いところではテンプテーションズのパパ・ワズ・ア・ローリングストーン などなど

上げたらきりがない。でも、憶えているだけでも当時の曲が全身を貫く。

ディープパープルのブラック・ナイト

オージェイスの裏切り者のテーマなどでは数人で並んで同じステップを踏んでいた。

踊りを見ている女の子の前でカッコ良さを見せつける。

あ~なんて良かった時代なんだろう、ただ女の子を落とすことだけ考えていた。

曲と曲との間に入ってくるチークタイム。

スローな曲に女の子と体が密に絡み合い、チャンス到来。

媚薬な甘い言葉を女の子の耳元でささやく。女の子の何ともいい匂いが鼻孔を貫く。

しっとりとした時間の中、「今日はこの女とホテルに行けるかも」等と妄想にふけったものだ。
チークタイムではプロコル・ハルムの青い影などがかかっていたな~

そうそう、忘れてならないのはつのだひろのメリージェーン。

思いだすがけで当時の俺にタイムスリップが出来てしまう。

眼を瞑れば楽曲が聞こえてくるほか、ほのかに香る女の子の髪の毛の匂いなども感じるほどだ。
アー若かりし良き時代。あの時はもう戻らないのだろうか。。。

日曜日にはいつもたむろしていた5~6にんで新宿のホコ天に繰り出していた。

もちろん目的はナンパと喧嘩だったのだが・・・

ファッションはボンタンに革ジャンもしくはあつらえたチャイナ服に玉虫色のスリム。

ホコ天でたむろし女の子をナンパしていた。ナンパに成功すれば新宿のディスコでフィーバー。そして意気投合すればお持ち帰りの日々だった。

ディスコに明け暮れ、女の子を尻を追っかける日々だったが、不良の真骨頂ともいえる青春時代だった。

そうそう、クールスの大久保喜市もディスコ通いをしていたメンバーだったけど同じようなものだ。

そんなわけで世の中でディスコが流行りだす以前にシルバースワンというディスコの発信基地に行っていた俺はその後は落ち着いてきてディスコからは脚が遠のいていった。

俺は最先端をいつも行っていたというわけだ。

不良が全部とは言わないけれど、ファッションでも遊びでもなんでも最先端を行っているというのは事実のようだ。

ということで今回は失礼します。

 

 

]]>
https://kasegublog.tokyo/archives/5360/feed 0