横山剣のクールスRCデビューは間違から始まった?

クールス
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走り屋クールスの中から精鋭8人が選抜されCOOLSとして芸能界デビューしたクールス。人気は頂点に達して順風満帆に見えた。

しかし、グループ内ではひそかにグループリーダー舘ひろしとメンバーとの間に不協和音が小さく鳴り響くのだった。

その不協和音はついにチームリーダー舘ひろしの脱退を現実にしてしまう。1977年4月の出来事だった。

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横山剣のクールスRCデビューは間違から始まった?

 

その後、キングレコードからトリオレコードに移籍。

クールス・ロカビリークラブとして再デビューを果たします。

リーダーに佐藤秀光そして、ツインボーカルにピッピさん、ムラさんが付きます。

しかし、この活動も長くは続くことなく1979年12月ボーカルの要、ピッピさんが

脱退してしまうのです。

これを機にトリオレコードからポリスターへと移籍するのでした。

さて、今回のテーマですが代3期クールスと言われているクールスRCのボーカル

のちのクレイジーンケンバンドを作った横山剣さんについてお届けします。

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クールスへの憧れが現実になった横山剣

Chopperでバイトをしていた剣さんはある日秀光さんから「剣、お前大学なんか辞めて俺んちに来い」と言われる。

そして、バンドボーイとなり全国遠征に行くことになる。のちにバンドボーイからグループのスケジュールまでこなすマネージャーも兼任。

そして、水口晴幸ピッピさんが辞めた後を穴埋めすべくボーカルとしてクールスに加入することになるのだった。しかし、このとき剣さんは悩みに悩んだという。

なぜなら、違うレーベルから剣さんの才能を高く買ってくれているところがあり「剣さん、一人でデビューしないか」というオファーがあったというのだ。

また、「クールスには自分には到底、勝てないジェームスさんがいるだから、俺の出番などない」と思っていたという。

そんな剣さんの想いとは裏腹にジェームスさんは「何しろ剣、お前は前に出ろ!」と剣さんの背中を押してくれたのでした。

それが力となり、

高校生の17歳の時に作った歌「シンデレラリバティ」で1981年10月にデビューをしたのでした。

ジェームス藤木の卓越した才能を見た横山剣

なんの変哲もない普通の歌だったシンデレラリバティががジェームスマジックにかかり

素晴らしい歌に大変身。

ジェームスさんの天才的な卓越した才能を思い知らされた瞬間だったそうです。

そして、レコードのクレジットにはジェームスさんが考えてくれた

芸名、「横山剣輝」という名前が出ることになっていたのだが、なんと出た名前は「横山剣」になっていたのです。

「ジェームスさん、なんで横山剣輝じゃなくて横山剣なんですか?」と

訊いてみたものの、どうにもなりません。

「もう、世間に横山剣で知られちゃったんだから横山剣輝はあきらめて

横山剣でいこう!」となったのでした。

そして、俺は俺なりにクールスRCに在籍していた時にはジェームスさんや

リーダー、秀光さんそして、他のメンバーの力を借りながら頑張ったのです。

しかし、あれは確か2年くらいたったある日のこと、

レコード会社から「最近のCOOLSRCの音楽の方向性が違ってきている

舘ひろしがいた頃の音楽に戻してくれ」という要望が出されたのだった。

このとき、剣さんは俺の居場所はないと思ったという。

詳細については剣さん自身の著書「クレイジー・ケンズ マイ・スタンダード」で
語られている。

その内容を以下にご紹介しておこう。

「新人のおれには昔のクールスに戻りようがない。当時のおれの楽曲、

おれの存在そのものを否定されたわけで、曲を書いてナンボのおれの居場所は

どんどんなくなっていた。

おれは舘ひろしさんがいた時代からのオリジナル・メンバーじゃないし、

単車チームとしてのルーツを持つクールスの歴史から見れば、ある意味、不純物だ。

原宿のクールスRCには伝統がある、横浜のおれには音楽しかない。

バンドに求められているのが、『音楽』だけではなく、

初期クールスとしての質感である以上、

おれはここを卒業、いや、中退しなければならなかった」

こうして、剣さんはクールスRCを1983年に脱退してしまったのです。

なんと潔いのでしょう。

横山剣のだったいは横山とクールスにどんな影響が?

その後、ダックテイルズそしてZAZOUというバンドを組んで活動していきますがパット行きませんでした。とうとう、バンドの活動を止めてしまったのでした。

その頃はもう、クールスRC時代の輝きはなく、自分に自信を無くしかけていた剣さん。生活をやっていくには歌のほかにもやらなければならなかった。

運送業をやりながらの二足の草鞋を履くことに。

「歌の活動は趣味でやろう」と決めたときでした。知人からのイベントのお誘い。急遽、バンドを組んだのがクレイジーケンバンドの前身のCK’Sシーケーズでした。

そこそこ人気が出たことで、アパレル会社の代表である元クールスRCのメンバー萩野知明が代表を務めるアパレル会社にぼくの事務所の電話を置いてもらったのです。

これが現在の事務所のダブルジョイ・レコーズの前身の会社でした。これがクレイジーケンバンドの始まりと言っていいでしょう。

一方、横山剣を失ったクールスはその後どうなったんでしょうか?

大打撃を受けたクールスはその後、活動を休止してしまいます。その間、なんと7年間という長きにわたり活動を休止してしまったのでした。

しかし、クールスの魂は生きていたんですよね。

元、COOLSのメンバー大久保喜市の呼びかけで1990年、ジェームス藤木、佐藤秀光、村山一海、大久保喜市、濱野和男、そうフランクさんです。

このときに、舘ひろし、水口晴幸ピッピさんですが、参加しませんでした。
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