岩城滉一が生涯オヤジと呼んだ安藤昇とは

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この記事は岩城滉一と安藤昇の関係を解説したものである。

どんな関係だったのかを安藤昇の経歴と共に紹介している。

安藤昇に興味のあるあなたには有益な情報となっていると思う。

なので時間の許す限り読んでもらいたい。

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安藤昇は裏社会と表社会共に成功を収めた偉人

安藤昇は暗黒な時代の昭和を駆け抜け、裏社会と表社会共に成功をおさめ

「この人あり」と世間に知らしめた異色なヤクザだった。

戦後、大学生を中心とした愚連隊からなる安藤組は

伝統的な博徒ヤクザとは一線を画し、

当時の若者から絶大な支持を集めることになる。

その中には六大学はもちろん、東大生も居たのである。

端正な顔立ちにと引き締まった肉体は自慢であり、

トレードマークになっている左頬の切り傷。

安藤の背広の着こなしはいつもオシャレで、

若い不良たちを虜にしていた。

また、安藤組ではヤクザのしきたりである刺青や指詰めを全面禁止とした。

そのスタイルは新しい時代のヤクザとして最盛期には組員が500人居たという。

渡世を引退した後は映画俳優、歌手、プロデューサー、作家などその才能を
多方面で開花させ、活躍を見せた。

特に映画俳優として頭角を現し、元ヤクザの俳優として売れに売れた。

映画人生34年の中で、56本の映画に出演した。

安藤は第二次世界大戦で配属先の特攻隊から帰還したとき、

「生きながらえたこれからの人生はオマケみたいなもの」と考えたという。

だから、何事にも「為せば成る」という特攻精神で突き進んでいった。

渡世人としても、俳優としても 後世に名を残すほどの成功をおさめたのは

特攻精神があったからではなかろうか。いやそうに違いない。

安藤昇は1926年東京都東大久保で生まれた。ガキの頃から手の付けられない暴れん坊で

その素行の悪さから15歳という若さで、警察のお世話になり18歳の時には少年院にぶち込まれてしまう。

しかし、彼は頭の回転が速く頭が良かった。

少年院で身柄拘束中には大日本帝国海軍の予科練に合格し、その恩赦で娑婆に出た。

当時の日本の戦況は劣勢に立たされており、どんな人間でも戦争に送り出されていた。

そんな中、なぜ安藤が自ら帝国海軍の予科練に志願したのかは分からない。

アメリカからの攻撃が激化した1945年、安藤は神奈川県久里浜の伏龍特攻隊に

志願し配属されていた。

伏龍特攻隊は人間機雷とも呼ばれ、潜水具を身にまとった兵士が海底で待ち構え、

棒付き機雷と一緒に敵の戦艦に突っ込んで、爆破させるという肉弾兵器だった。

毎日死と隣り合わせの過酷な訓練であったが、配属二か月目で終戦となり、

海に散ることなく生還した。

死を覚悟して毎日訓練に励んでいた安藤は生き延びたこれからの人生は

好きなように気ままに生きようと決めた。

戦争を経験した者は戦争が終わった後の虚無感からから暴れまわる者が多かったが

頭が良かった安藤はなぜか、法政大学に進学したものの、

大学で学ぶ理由が見つからず一年も絶たず退学し、仲間と一緒に愚連隊を結成。

左頬の大きな切り傷は23歳の時のものである。

銀座で台湾人と喧嘩になったときに切りつけられたものである。

相手の台湾人から上着を脱ぐから待ってくれと言われ、その言葉を信じて待っていたら
上着に隠し持っていたドスでいきなり切られてしまった。

当時、東京では闇市が流行り、愚連隊が群雄割拠していた。

そんな中、安藤達は一大勢力になり渋谷に「東興業」を設立した。

この東興業が世間では「安藤組」と言われていたのである。

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安藤昇が設立した東興業は新しい不良の姿

 

 

東興業は株式会社として登記し、始めは不動産、興業を主な仕事にしていたが、

賭博や債権取り立てなど裏社会のシノギに手を出すようになって行った。

当時から渋谷は若者でにぎわう街で、都会的でスマートな安藤は若者の間で人気になり、

不良たちが挙って東興業に集まった。

背広をオシャレに着こなし、刺青も指詰めも禁止した安藤のやり方は「ヤクザ革命」と呼ばれた若者に支持をされた。

安藤組は一般的にはヤクザとして扱われているが、博徒やテキヤ組織に所属歴がないため

法的にはヤクザではなく、愚連隊という組織であった。

安藤組にはステゴロ最強と言われた花形敬や森田雅等がおり、あの異色な作家阿部譲二が

出入りをしていたことでも有名である。 もちろんクールスの岩城滉一も然りであった。

安藤組が広く世間に認知されたのは1958年の横井英樹襲撃事件がきっかけであった。

安藤は横井から債権取り立てを依頼されたのであるが、横井の態度や言動に激怒し、

子分に横井の襲撃を命じたのであった。

一発の銃弾が横井に命中。横井は何とか一命をとりとめたものの

命令をした安藤は首謀犯として警察から指名手配された。

一か月の逃亡の末、逮捕され前橋刑務所に収監された。

この一か月間、かくまったのは舞姫のママ山口洋子であった。

花形や森田の力及ばず、組長不在で組織は次第に弱体化していき、

とうとう、警察からの追い込みから組織は分離状態となった。

おもな幹部が次々と逮捕され、右腕の花形敬は東声会の組員にタマを取られてしまった。

花形敬の母親に泣かれた安藤は1964年、組を解散し自らも渡世を引退した。

この時、安藤昇が38歳の時だった。

堅気になった安藤は引退から一年後、松竹からの映画出演を熱望され「血と掟」で衝撃的な俳優デビューを果たすことになる。

実際に命の取り合いをしていた漢の演技が話題になり、直ぐに世間から認められた。。

ギャラも当時のトップ女優であった岩下志麻の2倍という破格の待遇であった。

出演本数も56本に上り、安藤は一時代の金字塔を打ち立てた。

映画全盛期という時代背景もあって、松竹と契約終了後も東映や日活などの映画にも出演し、スターダムへと上り詰めた。なぜなら、5諸協定を破ってもだれも安藤には意見ができないほどの大物になっていたのである。

引退後もヤクザとのつながりは続き、ある組織の賭場に出入りをしたとして

警察に逮捕された。この時逮捕された警官からサインを頼まれたというエピソードも残っている。
安藤は俳優として確固たる地位を築いていたにもかかわらず、ある時期からぴたりと映画に出演しなくなった。

その理由はリハーサルで拳銃を撃つシーンがあり、この時「バンバン」と拳銃を撃つ声を出さなければならなかった 。 彼のプライドが許さなかったのである。

なぜなら、本物のチャカを撃っていたのだから。

全てが嫌になった。プライドの高い安藤はもう役者はうんざりだった。

彼は映画の世界から姿を消した。

晩年にはVシネマのプロデュースや執筆活動にも精を出し、右翼団体の相談役もしていたという。
2015年、肺炎のため安藤昇は89歳でこの世を去った。

翌年に行われた「安藤昇 お別れの会」では多くの映画関係者や俳優らが集まり、

その存在の大きさを改めて世間に知らしめた。

岩城滉一は若手の頃から安藤を「オヤジ」と呼び深く深く慕っていた。

自宅が安藤の家に近いことから私生活でも親交が深かった。

亡くなる数日前まで連絡を取り合っていた要だ。

岩城は「弱った自分を見せたくない」という安藤の気持ちを尊重し、

電話だけで看取らな買った。

これが安藤と岩城滉一との関係である。

と言いうことで、岩城滉一さんが生涯オヤジと慕っていた安藤昇について語ってきました。

最後まで見ていただきありがとうございました。

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