カミナリ族から暴走族へ|黒の軍団クールスは特別だった

クールス
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「カミナリ族」という名前を懐かしく思う方もいることでしょう。

1981年の警察白書によると、暴走族は1950年代半ば頃に登場したようです。

それ以前もバイクで危険走行を行う若者たちが散発的に事故を起こしたり

問題を起こしていたようですが、さほど大きな社会問題となっていなかった。

しかし、1950年代半ばになると話が違ってきたのです。

この記事では暴走族の歴史の中で、クールスが

いつ頃デビューを果たしたかについて

時代背景から具体的な出来事を織り交ぜながらお話します。

あの頃に戻りたいな~と思いながら書いています。
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カミナリ族から暴走族へ|黒の軍団クールスは特別だった

 

若いころというのは何しろ人より速く走りたかった。

その思いが高じて、バイクのマフラーを取り外して

エンジンのパワーを全開に引き出していた。

こうすることにより、パワーは増すのだがマフラーが無いのだから

エンジン音は爆弾と化し、周囲を爆音に包み込むようになった。

この爆音があたかも雷のごとく聞こえたことから

「かみなり族」と呼ばれるようになった。

その後、1960年代半ばになると、カミナリ族の中から、

ただ走り回るのではなく、「サーキット遊び」と呼ばれる、

決まった街頭での危険走行を夜通しで行うようなグループが登場してくる。

クルマ(四輪)のカミナリ族も登場するようになり、

さらに暴走行為を見物して楽しむ若者たちも増えていき、

そして全国に広まっていったのである。

暴走族と呼ばれるようになるにはきっかけがあった

そんなカミナリ族が暴走族と呼ばれるようになったきっかけは、

1969年5月に名古屋市テレビ塔付近で行われた「街頭サーキット騒ぎ」のようだ。

それまでは、基本的にはバイクやクルマを用いて騒音をまき散らし

危険走行を行う集団だったわけだが、この事件では、

多数の見物の若者たちも含めて約1000人が暴徒化。

一般車をひっくり返すなどの破壊活動を行った。

それから3年がたち決定的な事件が起こることになる。

1972年6月17日、場所は富山市、国鉄駅の前

暴徒化した暴走族が国鉄駅前でサーキット騒ぎを繰り広げ、見物客も混ざり

3000人が暴徒化することになり、近辺の商店や通りがかりの一般車を

襲って破壊するという行為を行った。

当時、それは大ニュースとなり、マスコミはこぞって

「暴走族」とよんだ。それが一般にも浸透していった。

その後、暴走族の多くが悪質化し、非行少年の温床となっていったのである。

クールス結成は1974年12月13日金曜日

ここはとある喫茶店、店の中は男たちのタバコの煙とポマードの匂。

店の古い時計が午前1時を告げる。

静まり返った店内に二人の男が入ってきた。

店にいた男たちはどうやら二人を待っていたようだ。

「大将、みんな集まっています」とピッピが口を開く。

「そうか、それじゃ~みんなこれを見てくれ」と。

最初に滉ちゃんが手に取って見ている。

滉ちゃんの肩越しから見てみる・・・

どうやら血判状らしいことが分かる。

どのくらい時間がたったことだろ。

この間、誰も動かないし話もしなかった。

「よーし俺が最初に血判する」と滉ちゃんが口を切った。

滉ちゃんはナイフを取り出し、器用に右手中指に傷をつけ

血判状に血判をして見せた。

これを見ていた秀坊が続いた。

そして、俺も血判した。

そう、この一連の下りは1974年12月13日の金曜日に行われた

クールス結成式 その時を切り取った一シーンだ。

舘ひろしさんと岩城滉一さんがおのおの自分のグループを作り

暴走行為に青春をかけていたのが富山で起こった暴走行為事件の

1972年頃だったと思う。

そして、二人は面白いチームを作ろうという同じ気持ちから

仲間を連れ立って、クールス結成のこの日を迎えていたのである。

なので、かみなり族から暴走族へと変わる過渡期にクールスはできたということ。

当然ながら富山の暴走事件は知っていたことだろう。

ぼくの違う動画ではご紹介しているのだが、東北には東北連合という

大きな暴走族があった。

この暴走族の3代目の鈴木康之さんともクールスはつながりがあるのだ。

この鈴木康之さんが男ぼれしたのが舘ひろしその人だったのだ。

クールスがその名を一躍有名にする

この血判状を経てクールスは黒い軍団としてその名をとどろかせることになる。

「黒い軍団」というのはクールスが黒を基調に黒い革ジャンに黒のマシーンなど

黒にこだわりを持ってクールスブランドを作り上げていたから、

後に「黒の軍団」と呼ばれるようになったのだ。

余談だが、舘ひろしさんが高校生時代にラグビー部に入って主将を務めていた。

そのラグビー部の名前がブラックスと言っていたので、それからのこだわりなのだ。

先の動画でもお届けした通り舘ひろしさんは「オシャレ」なので、

他の暴走族と差別化をはかり、めだとう精神旺盛だったんでしょうね。

この同時期、ルート20などという総勢3000人にも及ぶでかい暴走族があった。

しかし、1978年に道路交通法第68条として、

集団暴走そのものを罰する新規定「共同危険行為」が設けられ、

警察の取り締まりが厳しくなった。

その上、学校や家庭も含めた地域ぐるみの対策、

不正改造業者の摘発などにより徐々に人数を減らし、

解散するグループも増えていく。

そして、1982年を境に減少傾向に移ったのである。

さらに近年では少子化により暴走族に憧れる若者そのものが激減。

2003年に2万人を切り、2008年には1万人を切った。

そして2016年時点で5265人と、ピーク時には4万人以上いたのだから

8分の1ほどにまで減っている。

これが、近年、暴走族を見かける機会が減っている大きな理由なのです。

このまま暴走族は無くなってしまうのでしょうか?

まとめとして

 

カミナリ族が暴走族になったいきさつについて見てきました。

今から40年以上前のことがふと思い出されることがあります。

東京の下北沢に下宿をしていた時のことが思い出されるのです。

古き良き時代だった。

今みたいに携帯電話など無いし、パソコンなどもないアナログの世界でした。

でも、あの時の渋谷・原宿は良かったな~

希望に満ち溢れていた。

それに比べて今はというと・・・

便利になっている分、自分でなんでもやることが要求される。

いつ会社からクビにされるかわからない時代になった。

だから、自分一人でも生き抜く力を持たなければならない。

それには、ブログYoutubeしかないと5年前から取り組んでいる。

昔の思い出は時にはいいものだけれど、いつまでも慕っているわけにはいかない。

だから今日もブログとYoutubeに励んでいる。

ということで、最後まで読んでいただきありがとうございました。

この記事が少しでもあなたのお役に立てたら幸いです。

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