【永久保存版】クールスメンバーバイク好き3選

クールス
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僕のブログでは昭和50年代から60年代にかけてそのカッコ良さと話題性で一世風靡をしてたちまち時代の寵児へと昇りつめたバイクチームクールスについて取り上げ

史実に忠実に尚且つ、誰にでもわかりやすく記事としてお届けしております。

今回のテーマは「クールスメンバーバイク好き3選」というテーマでお届けします。

この記事を見ることでクールスメンバーの中でバイク好きなメンバー3人が分かると共に

結成当時から今現在のバイク好きの状況が分かるようになります。

なので、往年のクールスファンはもとより最近ちょっとクールスに興味があるというあなたにも大変有益な情報になっていると思います。

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 クールスメンバーバイク好き3選

バイク好きと言うとあなたはどんなことを思い描くでしょうか?

昭和の時代を爆音と「捻くれた自分表現」いわゆる暴力行為にうったえ

時代を駆け抜けた暴走族でしょうか?

それともバイク愛好家が集まってツーリングをするバイクチームでしょうか?

いや、黒の軍団と言われたバイクチームクールスです。

1974年12月13日といういわゆる不吉な日とされる13日の金曜日に結成されたバイクチームクールス。舘ひろしをリーダーに岩城滉一をサブリーダーに血の結束で結ばれたチーム。

結成式では自らの右手中指をナイフで傷をつけ、その鮮血で血判をさせた。

まるで明治維新の志士たちが志を一つにした血判状のように・・・

バイクチームクールスは無類のバイク好きが集まったバイクチームであった。

中でも佐藤秀光、岩城滉一そして郷田雅之はバカが付くほどのバイク好きであった。

新聞配達を生活の柱にしていた佐藤秀光とは

佐藤秀光は中学生のころから新聞配達をしてクールスのメンバー誰よりも早くから自分で自分の食い扶持を稼ぐというハングリー精神があった。

新聞配達をしてためた金でホンダのスーパーカブを買ったという。

これが佐藤秀光とバイクとの歴史の始まりであった。

当時の佐藤秀光は実家から飛び出し、北区の十条にあるアパートで暮らしていたという。

高校生になった佐藤は同級生4人と共同生活を始める。

実家を出た理由がドラムやギターを弾きたかったからと言う佐藤秀光。

なぜなら、ギター位の音なら良いのであるがドラムを実家で叩くと隣りの八百屋のオヤジが

「うるせー」と段ボールを投げつけたからだったという。

警察官だった親父から援助を一切してもらうことなく、生活をしていたという。

驚いたことには高校の入学金、学費、生活費、アパート代など一切援助無しだったという。

若干16歳の子供が、新聞配達で得たお金で生活の全部をやりくりをしていたのだから

社会的な強さをここで養ったのではないかと思われる。

なにわともあれ、全てが自分一人でやりくりをしていたという佐藤秀光でした。

スーパーカブを卒業した佐藤秀光は念願のオートバイ・ホンダCB450を手に入れる。

もちろんこのバイクも自分でためたお金で買ったのであった。

そして、高校を卒業した佐藤秀光は帝京大学に入るのであるがこの時も新聞配達をしながら鉄筋屋のバイトも始めていたのである。

そして、働いたお金でハーレーデュオグライドを手に入れることになる。

ホンダスーパーカブからハーレーデュオグライドを手に入れるまで5~6年の歳月が流れていた。大学に通うようになった佐藤秀光は岩城滉一と出会う。

そして、岩城滉一にバイクのイロハを教えた佐藤秀光はその後、岩城滉一と行動を共にすることになる。

岩城滉一がどんな生活をしていたのか気になる

中学生時代から女にもてた岩城滉一は家に帰ることはまれになり、点々と女の家を泊まり歩く生活となる。アンニュイなしゃべり方、そして元来イケメンな岩城滉一を女がほっておくわけは無く高級時計やバイクまでも貢ぐ女も現れていた。

佐藤秀光と出会った頃の岩城滉一は高級時計をして、カッコ良いファッションに身を包み

カワサキW1に乗っていたという。

岩城滉一と佐藤秀光は学校にバイクで通うようになり、ことあるごとに岩城滉一の家にたむろをしていたという。

たむろをしていたメンバーの中には高校生だった飯田和男もいたし、メンバーから「ハーレー」というニックネームで慕われるようになる郷田雅之もいたようだ。

その後、岩城滉一と佐藤秀光は原宿の喫茶店で運命的な舘ひろしとの出会いを迎える。
バイクの免許を持っていなかった舘ひろしをバイクの後ろに乗せて教習所に行った岩城滉一であった。
バイク好きな岩城滉一は舘ひろしにバイクのイロハを教えることになる。

ここで押さえておかなければならないことは佐藤秀光から岩城滉一へ、そして舘ひろしへとバイクのイロハを伝授しているということ。

無類のバイク好きを裏付けることというのは佐藤秀光はチョッパーというバイクとファッションの店を立ち上げ、2021年現在でも経営をしているということだ。

佐藤が社会貢献として捉え、手足が不自由な人のために600台以上をカスタムメイドをしたというハーレートライク。

手足が不自由なことから二輪のバイクには乗れない人のために、二輪を三輪に改造して乗れるようにカスタムメイドしたハーレートライク。

バイク好きな佐藤秀光ならではの気持ちがメカに乗り移り、佐藤のカスタムメイドを求めるユーザーが後を絶たないという。

一方、岩城滉一は佐藤秀光からノウハウを伝授され、その後は愛車を自分でカスタムメイドしていたという。

今ではクールス時代に乗っていたカワサキZⅡをはじめ、いわゆる日本を代表する旧車を何台も保有している。

そんなバイクを岩城滉一はカスタムメイドを行きつけのいろいろなワークショップの力を借りてやっている。

今ではYoutubeチャンネルを立ち上げ、カスタムメイドの模様を投稿しているのである。

そして、最後に取り上げるクールスメンバーの中で無類のバイク好きと言えば郷田雅之である。

ハーレーに取りつかれた男、郷田雅之のメカニック魂

郷田雅之はハーレーに魅了されて一生をハーレーに捧げている男である。

20歳の頃には舘ひろしのバンドクールスのオファーを断ってまで、アメリカにあるハーレー本社に訪れたことがあるという心酔ぶり。

彼をそこまで駆り立てたのは「ハーレー本社で働きたい」という想いだったという。

一か月に及ぶ「本社見学フリーパス」を手にした郷田雅之は納得がいくまでハーレー本社や工場を見学をしてきたという。

そして、日本に戻った郷田雅之はアメリカ基地がある福生でバイク屋を開いた。

その当時から郷田のバイクノウハウは卓越したものがあり、クールスのメンバーの中でも群を抜いていた。

その匠の技を活かし、郷田雅之はMotorcycle Godaを営むことになる。

東京から高速で約1時間。東京の外れのインターを降り、山部へ伸びる国道でさらに西へ。

町外れの緑深い地にその店はあった。

ハーレーダビッドソンひと筋40年超の郷田雅之が営むMotorcycle Godaは、ヴィンテージH-Dの修理を手掛けるスペシャルショップ。

このショップには郷田の卓越した匠の技を信じて、お客さんが後を絶たないという。

ということで、クールスメンバー佐藤秀光さん、岩城滉一さん、そして郷田雅之さんの

バイク好きという観点から考察してきました。

最後まで見ていただきありがとうございました。

それでは次の記事でまたお会いしましょう。

 

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