舘ひろし脱退※アメリカに渡ったクールスメンバーを待っていたものとは

クールス
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バンドCOOLSで勢いがついたメンバー達は全国ツアーを黙々とこなし、何時しかキャロルが抜けた穴を見事に埋めるように見えた。

しかし、彼たちの人気はその出で立ちと話題性で占められていて、音楽とは無縁のものだったのである。

舘ひろしが在籍していた1977年4月までに6枚のアルバムを出すも音楽的評価ときたら

皆無に等しものであった。

彼らに求められていたものはあくまでヤンチャな暴走族というレッテルであった。

そんな連中がバンドを組んで歌を唄っているという評価だったのである。

舘ひろしが脱退したあと、残留を決めた佐藤秀光をリーダーに水口晴幸

村山一海、ジェームス藤木、飯田和男、大久保喜市は満を持してアメリカに
レコード録音に赴くのであった。

さて、今回この記事でお届けするのはアメリカ録音でクールスに待ち受けていた運命ともいえる出来事の数々をご紹介します。

この記事を見ることで彼らがお手本にしていたシャナナとの関係と山下達郎との関わり合いが分かるはずです。

なので、バンドクールスファンはもとよりバイクチームクールスファンのあなたにも見てもらえればなと思います。

それではどうぞ

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クールスメンバー憧れのアメリカに見たものとは

 

舘ひろしが脱退した後、俺達は次のステップに到達すべく準備をする目ることになる。

キングレコードからトリオレコードに移籍することになった。

1978年にはアメリカに渡り、レコード録音をすることになった。

厳しい冬はアメリカではなお一層厳しく俺たちを出迎えたのであった。

空港に降り立った俺たちを迎えたのは真っ白な雪と厳しい寒さだった。

なぜなら、ニューヨークというのは緯度的には北海道より北に位置する土地柄。

真冬は厳しいのが当たり前であるが、俺達のやる気に燃え滾った気持ちは寒さおも凌ぐものだった。

メンバー一人一人の憧れでもあったアメリカの地を踏みしめ、これからここ音楽の聖地で

録音を録るのだから奮い立つ気持ちを抑えるのが大変なくらいだった。

トリオレコードのお偉方と大木トオルそして山下達郎がレコーディングに加わることになっていた。

山下達郎は準備のため俺達より先に単身アメリカに来ていた。

俺達はタクシーにのり、滞在中お世話になるホテルに向かっていた。

途中、マンハッタンのビル群を眺めながら光景をぼんやり見ていると大勢の人が通り過ぎ、

街には車があふれかえっていた。

そんな街並みに見慣れた光景が現れた。

「あれあれは!?」最新鋭に満ち溢れた街並みに突如、馬が現れたのである。

原宿でもいつしか見ていた「カウボーイ」にも驚いたことはあったが、ニューヨークでも馬が歩いているとは思わなかった。

後から聞いた話であるが、ニューヨーク市警の警察官が巡回のため乗っているとのことだった。

俺達にとってはそんなニューヨークは映画の中の話のような光景だった。

ニューヨークのスタジオに入り、レコーディングを始めるとスタッフのレベルの高さに驚いた。

感性はもちろん技術的にも優れていて日本では考えも及ばないレベルの高さだったのである。
日本ではレコード会社が用意するスタジオとスタッフだから、個人個人の感性など何でもよく首尾よくレコーディングを完成してくれればそれだけで良かった。

しかし、ここアメリカではスタッフの個人個人の感性を大事にしていて、技術力もことあるごとに頭をもたげてくる。

この空気感がロックには欠かせないものになっていて、俺達を驚かせたのである。

「ここに来てよかった。ここで録音すればきっといいものができる」

俺達は手ごたえを感じていた。

レコーディングの合間を見て俺たちは街を歩き回ったりもした。

映画館の前で人だかりができていたので、近づいてみると黒澤明監督の「七人の侍」が上映されていた。
ビックリしたことに映画館では竹刀がうっていたこと。

映画を観たアメリカ人たちは上機嫌で竹刀を買って帰るではないか。

黒澤明の偉大さを改めて思い知る瞬間だった。

そして、あこがれの的であり彼らの音楽に傾倒していたシャナナ。

クールスのメンバーを驚かせた出来事とは

 

俺達はシャナナのオフィスを訪ねたんだ。そこで驚愕なことが起こった。

それは事務所の壁いたるところにクールスの写真が所狭しと貼っているではないか。

話によるとシャナナのマネージャーが大のクールスファンで日本から苦労して取り寄せた

レコードやポスターをコレクションしているということだった。

シャナナの影響を受け、お手本にしていたシャナナの事務所に俺たちのポスターが貼られているなんて何とも誇らしいと思ったものだ。

俺達がやって来たことは間違っていなかったんだと改めて思える瞬間だった。

そして、ポスター以上のサプライズが俺達を待ち受けていた。

マネージャーが俺達のために滞在中にニューヨークでクールスがライブを行えるようにセッティングをしてくれていたんだ。

ライブ会場は2か所で「CBGB」と「マクサス・カンザス・シティ」というロックの聖地と言っても良い名門ライブハウスだった。

「俺達がロックの聖地でライブをやるなんてオーマイゴッド、夢のようだ」

テンションは最大最高値に上がっていた。

ところが、俺たちの気持ちとは裏腹に両方の会場で問題が発生。

CBGBはシャナナのマネージャーの手違いでライブ当日がダブルブッキングとなってしまい、

会えなく中止となってしまった。

これがなんとニューヨークタイムズに取り上げられ「日本のロックバンドが手違いのダブルブッキングでCBGBに出演ならず」と大々的にとりあげた。

一方、マクサス・カンザス・シティでではライブの一週間前にチャイニーズマフィアによる、銃撃戦が起きて店内がめちゃくちゃにされてしまった。

これが噂になってしまい、「猛お客はここには来ないだろう」などとなっていた。

実際俺たちもそう思っていた。

しかし、当日ふたを開けてびっくり。

続々と日本人のロックに関心があるニューヨーカーが集まってきたんだよ。

感激だったね。

ビール瓶を片手に俺たちのロックを聴いてくれている。

俺達の音楽が認められた瞬間だった。

この日は山下達郎が俺達の楽器や身の回りの物をそろえてくれていた。

ローディーを買って出てくれたのだった。

山下達郎との思い出は俺の一生の宝物になったものだよ。

そして、クールス名盤と言われた「New York City,N.Y. 」が出来上がった。

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