ぼくみたいに半世紀以上生きている人間にとっては古き良き時代というと
昭和を思い出してしまう。
なぜなら、人と人との触れ合いがあり人情があった。
アナログ世界では人とのかかわりが、生活の比重を占めていたので
自分一人の力など微々たるものでしかなかった。
しかし、デジタル化した今2020年は大きく世の中が変わった。
この記事ではクールス舘ひろしの生き方を通して昭和のことを
そして、今現代の生き方について書いています。
これからの時代は古き良き時代というわけにはいかないことが分かると思います。
なので、生き方について自信が無い時などは
多少なりとも参考にしてもらいたい記事となっています。
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一人で生きられない時代から一人で生きられる時代へ
1975年当時と言えば、古き良き時代。
昭和の象徴ともいえる暴走族が全国的に勢力が大きくなり
余り余った若い力をどこにぶつけたらよいのかわからない。
ちょっとでも気に入らないことがあれば暴力に訴え
自分の力を誇示ぢていたそんな連中だらけ。
ここ福島県でも例外ではなかった。
爆音をばらまき力を誇示したがっていた若い力があっちこっちで
小競り合いをやりながらやがて一つの大きな力となって行ったのである。
その力というのは福島県郡山を中心にその名をとどろかせた
東北連合だった。
この物語は東北連合3代目鈴木康之の物語として紹介したい。
福島郡山市の一人の孤高の虎がいた
佐藤三郎は鈴木に向かって・・・
「東京にCOOLSというかっこいい若い奴らがいるんだけどお前プロデュースしないか」と。
眼光鋭い目で佐藤は鈴木を見ていた。
「俺はもうone stepのニノ前は嫌だから、遠慮しとくよ」
しかし、佐藤はあきらめなかった。
「ジャーとりあえず、舘が出ている映画を見てみろや」と
舘ひろしの映画デビューとなった「暴力教室」であった。
当時、ハードボイルド俳優であり、威風を放っていた松田優作主演の
学校を舞台にした教師と生徒による「暴力」そのままを
取り扱った異色な映画だった。
ある意味、舘ひろしがクールスという暴走族で培ってきた生き様そのままに
出演をしたようなキャスティングであり、見たものの度肝を抜くものだった。
興行師の元締め佐藤三郎って?
ちょっと余談だが、佐藤三郎さんについて触れておこう。
佐藤三郎さんと言えば、1974年8月に福島県は郡山市、開成山公園で開催された
伝説のフェスティバルがONE STEPを実行委員長として成し遂げた人だ。
ONE STEPは「日本版ウッドストック」と呼ばれ、ジョン・レノンの奥さんだった
オノ・ヨーコさんをメインアクトに、内田裕也、石坂敬一らのサポートのもと
開催されたフェスティバルだった。
今や日本に当り前に根付いた「フェス」のパイオニアなのだ。
その源流には、ミニコミ誌「ONE STEP」があり、郡山アース・デーがあり、
「街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を」というテーマがあった。
時代を先駆けした、音楽と環境問題のイベントが「ONE STEP」だったのだ。
そして、佐藤三郎はその名を業界にとどろかせていたのである。
要するに、平たく言えば興業の元締めと言ったところだろうか?
今では考えられないことではあるが、この当時は芸能活動は地元の
このような実力者が居て、その人を通さないと芸能活動ができなかったのである。
ということで、そんな佐藤三郎という大物から言われたのだから
東北連合の3代目の鈴木康之でさえ、言われたことをしないわけにはいかない。
そして、鈴木は暴力教室を見ることになったのだった。
はっきり言って、舘ひろしの演技などそんなにうまくはなかった。
しかし、鈴木のこころを虜にしたのは舘が放っていたオーラそのもの。
一発で鈴木は舘ひろしという漢に惚れこんでしまったのである。
暴力教室を見た鈴木から佐藤に声がかけられたのは直ぐだった。
結果を見てみれば、佐藤のすすめに鈴木が快諾した格好になった
COOLS郡山講演。
鈴木康之が漢としてほれ込んだ舘ひろしとは!?
車の中はどこかピンと張りつめた空気が流れていた。
舘ひろしらCOOLSのメンバーを何台かの車で出迎えていた鈴木達だったが
沈黙を破り鈴木が舘に話しかけようと思ったとき、
舘が「ここの頭は誰なんだい?」と
沈黙を破ったのだった。
それに応えて、「自分がリーダーの鈴木です」と。
後で分かったことではあるが、このとき舘ひろしは
鈴木を相当警戒していたということだった。
なぜなら、鈴木はONE STEOにキャロルが出演したときに
チョットしたことから矢沢永吉をぼこぼこにしたことがあったのだ。
このことを舘は矢沢から聞いていたに違いないのである。
東北連合の鈴木には気をつけろ!と。
今回のフェスについてはチャリティーコンサートという形をとること。
鈴木は佐藤と話し合った概略を舘ひろしに説明していた。
舘ひろしは一つ返事で鈴木の申し出を快諾したのだった。
おそらく佐藤三郎からの打診があったからなのだろう。
このようにして、舘ひろしと鈴木三郎は出会ったのであった。
これから鈴木と舘との友情は深まっていくことになる。
舘ひろしがCOOLSを脱退するまでに郡山で10回の公演を開き、
仙台でも2回の公演を開くことになった。
まとめとして・・・
昭和の古き良き時代は人と人との繋がりが大きかった。
言ってみれば、一人では生きられない時代だった。
しかし、今は昔とは違う。
SNSというインターネットでの自分の表現方法があるので、
個人として、できることが制限なくできてしまう世の中になった。
具体的に言えば、インフルエンサーと言われる人たちが
自分の主義主張を誰にも邪魔されることなく言えるようになった。
その結果、個人が力を持つことになり、人間関係が薄れてきた。
それでも、ブログやYoutubeで自分一人の力でお金が稼げるようにもなった。
昭和の時代にタイムスリップできたなら、現代の生き方など相手にされないだろうが
今の時代は自分個人の力をつけて、自分だけでも生活できるスキルが必要だ。
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