僕のブログでははるか古の1970年代を黒の革ジャンに身を包みそのカッコ良さと
話題性で当時の若者のハートを虜にし、時代の寵児へと昇りつめたバイクチーム
クールスについて独自な観点からお届けしております。
今回お届けするのは1974年12月13日に設立したクールスの元リーダー舘ひろしさんと
水口晴幸さんの対談の中からお届けします。
この対談は大変貴重な対談であり、クールスファンには目からうろこ情報が
詰まっているものになりました。
なぜなら、ヤンチャをしていた当時の出来事をほじくり出されるのを嫌っているからです。
舘ひろしさんに至ってはブログなどのSNSなどをやっていないのでなおさらのこと。
一方、水口晴幸(ピッピ)さんはブログでクールスでの出来事をごくまれに
書いてくれるのです。
そんなお二人にとって、今回の対談は正に奇跡と言っていいでしょう。
なぜなら「クールスに関することについての質問に答えてくれる」というものですから。
それではどんな目から鱗情報が出てくるのか楽しみにしながらどうぞ
それでは本題に入って行きましょう。
クールス舘ひろしキングレコードと契約の理由とは
「革ジャンとバイクがあればそれだけで良い」それだけが俺の考えだった。
当時から粋がっていたのは確かだけど、どこに行ってもそれを押し通していた。
バンドとしてデビューをする時もそうだった。
確か最後の交渉に残ったのは3社だったかな。
キングレコード、ビクターそしてフォノグラムという会社だった。
フォノグラムはキャロルを全面的にバックアップしていた会社だったよ。
契約をするために会社の条件を確かめたんだ。
すると、キングレコードが一番良い条件を提示してきた。
それでも俺は納得ができず、条件を見直し俺たちにとって好条件になるように
訂正した。
それをキングレコードの担当だった佐々木寛にぶつけたんだよ。
そしたらさ~。次の日にお偉方を連れてきたんだ。
確か赤間という男だった。
「おカネは出しますよ」ということだったんで、俺はピッピの後押しもあり決断。
キングレコードと契約することにしたんだよ。
だってさ~クールスを結成してからはメンバーの皆バイクを
乗り回すのが楽しい余り、
今までやっていた仕事をおろそかにしてしまい、働かないものが続出し
ていたから
そいつらを食べさせなければいけないというリーダーとしての
責任感があったからな。
まぁ~俺の場合はその当時、親からの仕送りもあったし俺は俺で仕事を持っていたから良かった。
ピッピは鳥居坂にあったオレンジカウンティーという服飾関係の会社で
デザイナーをやっていたしな。
「そうそう。ジェームスが俺と大将をオレンジカウンティーで紹介してくれたんだよ。
大将、覚えている?」
もう大分前のことだから正直覚えてないよ。当時俺が働いていたGRASSで始めたあったんじゃなかったっけ?
「いや、そうじゃないよ。サムが働いていたアズールでジェームスを
紹介してもらい、仲良くなってオレンジカウンティにビリヤードをやりに毎日寄るようになってジェームスが「今度、ひろしっていうナイスガイを紹介するよ」って言うことで
俺は大将をジェームスから紹介されたんだよ。
当時のことは俺はよく覚えているよ」
クールスの血判とバンドCOOLSデビュー
ちょっと話がそれちゃったけど、キングと契約をした後がそれはそれは大変だったよね。
何せ音楽関係をやっていたのはジェームスだけだったしな。
デビューまでの時間もたった3か月という殺人的なスケジュールだったしな。
今で考えれば到底できない芸当だよ。
「最初のレコーディングの日なんか大将は椅子でふんぞり返って、『腹が減ったからウナギの特上を頼む』なんて抜かしているしさ」
当時のバンドのメンバーは8人で裏方入れると10人を超す人数に
なっていたんだから
キングの連中も大変だったと思うよ。
何せ俺のスタイルは「いやならやめればいいんだよ」っていう
スタイルだったからな。
キングからすれば厄介な連中だったんだろうな~
「だって、大将がボーカルになって初めて聞いたその歌が上手けりゃよかったけど、到底褒めるレベルのもんじゃなかったしな~笑い」
それでも俺たちは何とかデビューにこぎつけたんだ。
それはクールスの厳しい拘束のたまものだった。
何しろ、リーダー舘ひろしによる独裁で運営されるというものだったからな。
「そうだよな~俺は血判の時に本当に悩んだんだよ。だってそうだろう。
一度血判をしたらずっと舘ひろしの命令を聞くということだぜ。
だから今でも大将から連絡が入れは飛んでくる始末だからな(笑い )
そして、今でもその血判状は大切にして持っているぜ」
順風満帆に見えた俺達だったけど、俺がグループを脱退することになった。
脱退というか本当は解散をしようと思っていたんだよ。
「そうだったよな~ リーダーの大将が辞めるんだったらグループは解散した方がカッコいいし、クールスらしいよって俺は言ったんだよ。でも皆がやっていきたいって言うから
結局やる羽目になってしまったんだよ」
俺はあの時はもう疲れたんだよ。これ以上お前たちの面倒は見てられないと思っていたし、
解散しなくて続けて行くならそれでもいいと思ったよ。もうどうでも良いと思っていた。
だから、俺について来てくれていた裏方のサムやモガ、ターベ達ち4~5人を連れて俺は脱退したんだ。
脱退するちょっと前から上條英男が映画の話を持ってきていて映画の道も見え始めていた時だったから、なおさら俺はどうでも良いと思っていたのかもしれない。
ということで今回は舘ひろしさんと水口晴幸さんの対談ということでお届けしました。
メンバーを食べさせていくためにいろいろと苦労をなさった舘ひろしさん。
しかし、その苦労など分からないメンバーの中には「舘ひろしだけ良い思いをしている」などととんでもない考えを持つメンバーが現れ、メンバーとリーダーの間に亀裂が生じることになった。
それもこれもグループ内では良くある話し。お金のことはいつの時代もどこのグループでもうまく行かないのが常なのかもしれませんね。
さすが舘ひろしさんと思ったのは裏方のクールスのメンバー4~5人を連れて脱退したところですよね。
コメント