クールス現リーダー佐藤秀光半生を語る|新聞配達とバイクとドラムと

スポンサーリンク
佐藤秀光と子供と孫とクールス
スポンサーリンク

見ていただきありがとうございます。

このブログでは1970年代を颯爽と黒のビッグマシーンにまたがり、黒の革ジャン

に黒のジーンズ、リーゼントでばっちり決め、若者のハートを虜にしてしまった

黒の軍団、クールスについて独自な観点から取り上げお届けしております。

今回お届けするこの動画ではクールスが結成され、45周年を迎えようとしている中

クールス現リーダー佐藤秀光さんの半生についてお届けしたいと思います。

この記事を見ることで佐藤秀光さんの中学時代のことが分かるようになります。

分かるようになると、佐藤秀光さんの考え方や生き方が分かるようになりますよ。

なので最後まで見ていただければなと思います。

スポンサーリンク

3歳でジープに轢かれアメリカを知った佐藤秀光

 

俺は東京は練馬区の武蔵関で生まれた。1951年4月1日生まれたというのだから

生まれた時から嘘のような誕生日だ。

終戦から6年しかたっていないこともあり、戦争の名残があっちこっちに残っていた。

何が一番残っていたかと言えば、まだアメリカ軍の名残のGHQが日本を占領しており、

軍服を着たアメリカ兵がたむろしていたのをおぼろげに覚えている。

4月1日生まれと言えば今ではエイプリルフールって言うことで世の中に浸透しているが

俺が生まれた当時はそんな言葉時代聞いたことが無かった。

余談であるが、俺の長女も4月1日生まれで、次女の子供にも4月1日生まれの

子供がいるのだから人生は奇妙なものだと思う。

ただ単の偶然だと言ってしまえばそれまでだが・・・

当時の練馬って言ったらまだまだ未開の地で、雑木林やら田んぼやらが多くあり、

外で遊んで帰ると必ずと言っていいほど足にヒルが何匹もくっついていた。

俺がまだ3歳の時だった。

オヤジとアニキと遊んでいた時だった。

二人を追っかけて道路に飛び出すといきなり黒くて大きな物体が

俺の前に現れた。その瞬間、大きな「ドン!」と大きな衝撃音がして

何メートルも吹き飛ばされた。

体中に激痛が走り、地べたにうずくまっていた。

聞きなれない、言葉で何かを叫んでいる二人の大男が見えた。

「あ、僕はジープに轢かれたんだ」と思った。

ジープのドアが開き、大きな男がこっちに慌てて走ってきた。

何かを叫んでいるけど、何て言っているのかわからない。

心配そうな青い目は今にも泣きそうだった。

その時だった。オヤジが大声でその男を怒鳴りつけている。

親父の剣幕におののいたのかその米兵は何度も何度も謝っていた。

人生、最初の記憶がアメリカ兵のジープに轢かれたという記憶だからおかしなものだ。

そんな俺がアメリカのフィフティーズファッションに憧れハーレーに憧れるのだから

人生は奇なりであるということか。

この事故から60年以上の中で何度となく三途の川を渡り損ねている。

でも俺はバイクが好きなんだ。

スポンサーリンク

佐藤秀光の原点は新聞配達から始まった

 

佐藤秀光の新聞配達時代

そんなバイクとの出会いであるが、俺は中学生から新聞配達をしていて

自分でためたお金でバイクを買うことになる。

始めて買ったバイクがホンダのスーパーカブだった。

当時、スーパーカブと言えば憧れの的で中学生でスーパーカブを持っていたのは

俺だけだったに違いない。というか俺だけだった。

しかし、俺のオヤジが警察官というのにかかわらず中学生が無免許運転を

していたのだから始末がわるい。

もちろん、オヤジには内緒でバイクには乗っていたのはもちろんのこと。

当時俺は新聞配達をしていたのであるが、新聞配達の時も新聞社のバイクを借りて

新聞配達をしていた。

新聞配達を始めた頃は歩きで歩きながら配達をしていた。

それから進歩して自転車での配達。そしてバイクになった。

中学2年生の俺にバイクを貸して配達させていた新聞屋もいい加減なものだ。

一口で新聞配達と言うが、この新聞配達は本当につらいことだらけだった。

夏はいいのだけど、冬は大変極まりない。雪が降ろうが配達をさぼるわけにいかない。

正月でも配らなくてはいけない。台風が来てもしかりである。

配ることが宿命の新聞配達。あれば真冬の雪が降っている朝だった。

寒さでかじかんで思うように動かない手をさすりながらバイクに乗って配っていた。

その時だった。突然俺の前にトラックが現れたのだ。

しかし、気づいた時にはもう遅かった。

俺はそのままトラックに激突。目から火花が散った。

痛かった。死んだかと思った。俺は運が良かった。とのトラックは

停まっていただけだったんだ。

もし、このトラックが走っていたら俺はバイク事トラックの下敷きになり、

即死だっただろう。そんな経験をした俺はバイクの運転に慎重になったのは当たり前だ。

それからどれくらいたったことか、ある春のさわやかな朝のこと

配達が終わった後に俺は栃木にある日光東照宮が見たくなった。

「よ~し、夕方までに帰れば大丈夫だ」と思い、日光に向かってカブを飛ばしていた。

しかし、栃木に入った時にはもう夕方になり俺は東照宮はあきらめた。

カブで行くには東照宮は遠すぎたということだ。

当然、夕方の配達をすっぽかす結果になり同僚のおじさんたちが手分けをして

俺の穴を埋めてくれていた。社長やらオジサンたちからは大目玉をもらったのは当たり前。

俺はその時に、約束の大切さと社会の厳しさを学んだ。

それから大学時代まで、一度たりとも穴をあけたことは無かった。

それが俺と新聞配達の関係だ。

スポンサーリンク

佐藤秀光の音楽のルーツはベンチャーズだった

警察官のオヤジが無理して買ってくれた白黒テレビを見ていた時だった。

俺はベンチャーズが画面いっぱいにギターを弾き、ベースの重低音を鳴らし、

ドンドンというドラムが鳴り響くシーンを見たのだった。

俺の心は完全に奴らにやられてしまった。

「おれもあのドラムをやってみたい」

俺は仲間を集めてバンドを作ることを決心。

ついにグループを作ることになる。

新聞配達でためたお金をはたいて、5万円でドラムを買ってしまった。

当然足りない分はローンを組んだのであるが、当時は丸井のクレジットを使ったと思う。

よくよく考えれば中学2年生のガキに良くお金を貸してくれたもんだと驚いた。

良くドラムの練習はうるさいから座ぷトンなど並べてすればいいと言われるけど、

それじゃ、体がいつまでたってもサンドを覚えない。

ドラムは音を出して、その音を体で覚えていくという訓練が最も大事。

俺は「うるさい」と言われながらもどんどん音を出して練習をしていた。

俺たちは中学の時になんかの機会に全校生徒の前で演奏をすることになった。

演奏をすると、生徒たちは体を揺さぶり体育館はディスコ会場のようになった。

俺たちの演奏でみんなが躍っている。本当に快感だった。

しかし、その時だった。

「やめ~!止めるんだ!踊りをやめろ!」

先生が一斉に踊りを止めさせ、俺たちの演奏も強行終了させてしまった。

人生最初の大舞台だったというのに、あっという間の出来事だった。

でもでも、俺たちの演奏がみんなの踊りを誘導したのだ。

この経験があったからこそ、クールスのデビューの時にも生きたと思う。

以上が、俺と新聞配達とバイクとドラムの関係ということかな。

ということで、今回はこの辺で失礼します。

最後まで見ていただきありがとうございました。

それでは次の動画でまたお会いしましょう。

おーちゃんでした。

ではまたバイバイ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました