二つのクールス|舘ひろしが在籍したときと脱退後と

クールス
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80年代の原宿カルチャーを語には、クールスの存在は無視できないであろう。

なぜなら、80年代の若者のすべてに影響を与えていたのがクールスだからだ。

1974年12月13日金曜日に、原宿ディノバーガーで舘ひろし・岩城滉一を中心に

バイクチーム・クールスが結成される。

彼らは矢沢永吉率いるキャロルラストコンサートで親衛隊としてその名を全国にとどろかせた。

キャロルのラストコンサートというのにキャロルのファンだけではなくクールスファンも

多く参加しており、日比谷野音は今にも爆発しそうな様相を呈したほどだった。

コンサートのドキュメント映像が収録された『燃えつきるキャロル・ラストライブ』の

中で、コンサート会場・野音に向かう矢沢たちキャロルメンバーが乗った白いビュイッ

クは印象的で、見る人すべての度肝を抜くほどのパッションを放っていた。

なぜなら、ピッピこと水口晴幸が運転するビュイックの周りには取り囲むようにして

黒いビックマシーンが並走していたからだ。

ビュイックと黒い軍団は国会議事堂を背景に全国に映し出された。そのいで立ちは

もちろんリーゼント、黒の革ジャン、黒のパンツと言ったクールスそのものだった。

これを目にした当時の若者がクールスの影響を受けたのは言うまでもない。

この記事では舘ひろしがいた時代のクールスとその後のクールスというテーマでお届けします。

この記事を見ることで、舘ひろしが去った後のクールスが原宿文化にどのように

関わり、影響を与えていたかがわかるようになります。
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原宿カルチャーに影響を与えた二つのクールスとは!?

 

キングレコードの新人ディレクター佐々木の執拗な説得に根負けをした格好で

2か月ちょっとという短期間のレコーディング期間を経て1975年9月21日――

今までになストリートバイカーミュージシャンCOOLSとしてデビューしたのであった。

舘ひろしをリーダーにCOOLSがデビュー

デビューアルバムは『黒のロックン・ロール クールスの世界』で、シングルカットは

ご存じ「紫のハイウェイ」だったのである。

もとより、バイクと音楽で自分たちの居場所を築くという太志を持ってのことだった。、

このときジョニー大倉をプロデューサーとして迎え、矢沢永吉が「五大洋行」として

作曲をしている。また、編曲は近田春夫が担当した。

しかし、対外的にはジョニー大倉がプロデューサーとして公表されていたのだが、

ジョニー大倉はほとんど顔を出さなかったという。

公表と実際が違うということはよくあることではあるが、ジョニー大倉がプロデュースを

しなかったということについてはジェームス藤木と近田春夫がのちに証言している。

詳しく知りたい方は

COOLSデビューの真実がついに明かされる!ジェームス藤木と近田春夫との対談での衝撃な発言とは!という動画を見てください。

 

近田春夫はジェームス藤木からのオファーから参加しており、編曲を担当。

他には当時のファッション界では権威だったファッションプロデューサーの四方義朗(よもよしろう)という才能を迎え、クールスに花を添えている。

作曲、作詞など全般のソングライティングにはわれらがジェームスさん、ジャームス藤木が
卓越した才能を余すことなく注ぎ込んだのだった。

映画『アメリカン・グラフィティ』や『ウエスト・サイド物語』に舘ひろしが作詞した

ちょっとセンチメンタルな部分が加わることで、今までにないクールスロックンロールが

出来上がったのだった。

1970年代はパンクやニューウェーブが台頭していた時代であったのだが、

クールスの楽曲は異彩を放っており若者に大きく影響を与えたのであった。

しかし、リーダー舘ひろしがメンバーとの方向性の違いから1977年COOLSを脱退。

その後、クールス・ロカビリー・クラブ、クールスRC とバンド名を変えていった。

舘ひろしが居ないその後のクールスとは

舘ひろしがいた時代のCOOLSと脱退後のクールス・ロカビリー・クラブ、クールスRC

は同じクールスを名乗っているのだが、全く別物と言ってよいだろう。

なぜなら、70年代末から80年代にかけて、ロックンロール、ヤンキーカルチャーの

象徴として原宿のロックンローラーたちに絶大な支持を得ながら音楽的進化を

遂げていったからだ。

アメリカの広大な景色を思い出させるアルバム『ビッグ・ディール』

には原宿ホコ天のラジカセから必ず流れ、定番だったクールスRC の「T-BIRD CRUSIN」

’(ティーバード・クルージン)」が収録されていた。1980年に発売された。

キャッチ―なこの名曲をバックに一糸乱れぬダンスを披露していた原宿のローラーたち

の姿が目をつむると今でも思い浮かぶ。

『ビッグ・ディール』には50年代、60年代の R&B の深みがグッと凝縮されていた。

ちなみに、同曲は山下達郎プロデュースによりニューヨークで1979年にレコーディングされた

名盤『NEW YORK CITY, N.Y.』を継承しており、われらのジェームスさん、

ジェームス藤木がソングライティングを手掛けたのだった。

原宿の若者に絶大な影響を与えていた当時のクールスの人気はすごいものがあり

クールスはメンバーが次々とファッションショップを
開いたのだった。

リーダーの佐藤秀光は、バイカースタイルでハードがウリの「CHOPPER」。

ヴォーカルの村山一海はポップなアメリカン・フィティーズ路線の「SHOUT」や「BEAT POPS」。

また、ギターのジェームス藤木と、サイドギターのフランクこと飯田和男は

「WILD DANCER」を展開したのだった。

「WILD DANCER」はブラックミュージックのエッセンスを取り入れ、

どこかニューヨークのハーレムを匂わす独特のセンスを放っていた。

これらのショップは、原宿フィフティーズブームの火付け役となった

「クリームソーダ」とは一線を画し、アメリカンカルチャーを全面に打ち出していた。

連日、原宿のローラーはもとより、全国の不良少年たちが集まり、その様相は、

まさに聖地そのものであった。

その後のクールスが原宿カルチャーに与えたものとは

このころのクールスRC は、音楽とファッションを連動させ、ひとつの時代を作り上げた。

特に音楽面では、前身であったクールスロカビリークラブにも負けることなく

ストイックにそして、露骨にロックの根源を追求していった。

それを可能にしたのはギタリスト、シンガー、作曲家として、山下達郎を唸らせた

クールスの屋台骨、ジェームス藤木の卓越した才能があったからに他ならない。

このようにエネルギー冷めやらぬうちに81年より、現在クレイジーケンバンドで活躍中

の横山剣がヴォーカルとして加入したのだった。

そして、翌82年には60年代のアメリカ R&B のマニアックな部分を追求した

名作カヴァーアルバム『クールス・オールディーズ・スペシャル』を発表する。

80年代初頭にこれだけ音楽的進化をとげたバンドは他に類を見ない。

しかし、これまで日本の音楽業界で “クールス” を真っ当に評価する人が

少ないのはなぜなのだろうか?

若者のハートをわしづかみにし、虜にしたクールスの高い音楽性の楽曲が評価されないのは

おかしいのではなかろうか?

評価されない理由はリーゼント、黒の革ジャン、黒のパンツなどに象徴される

暴走族というくくりがあるからなのかもしれない。

しかし、いつしかそんな偏ったフィルターを取っ払ってクールスが評価される日が来るに違いないと信じている。

ということで、今回はクールスには2つのクールスがあり、舘ひろしがいたクールスと

その後のクールスについてお届けしました。

別物のクールスとはいえ、原宿カルチャー、ことに若者を中心とした大きな流れをつくり

時代の先駆けのリーダーとして存在していたことは間違いない事実なのです。

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