このブログではバイクチームクールスからバンドクールスまで当時起きた様々な出来事やメンバーの今現在の活動などを史実に忠実に記事としてお届けしております。
今回お届けするのは2019年9月29日に出版になったジェームス藤木さん著書、
ジェームス藤木自伝より「走り出した音楽人生」というテーマでお届けします。
この本ではジェームス藤木さんが事細かく当時の出来事を教えてくれているので
バンドCOOLSデビュー当時のことが手に取るようにわかるようになりますよ。
クールスファンは喉から手が出るほどのレア情報が満載のはずです。
なので時間の許す限り見てもらえればなと思います。
ジェームス藤木自伝より「走り出した音楽人生」
舘ひろしが話をまとめクールスはレコードデビューすることになった。
クールスがたむろしていたレオンには何人かのレコード会社の人間が「うちと契約しないか」とやって来た。
彼らには第二のキャロルを売り出して儲けようとする思惑があったんだろう。
舘ひろしは複数のレコード会社を天秤にかけ有利な条件を出す会社と契約しようとしていた。
キャロルを担当していたことで有名なフォノグラムの井岸義則とも交渉していた。
その過程で、六本木の俳優座近くにあったフォノグラムのスタジオへデモテープを録りに行った。そこはキャロルが使っていた狭いスタジオで機材が古かったのを覚えている。
その時にやったのは当時の十八番の「リトル・ダーリン」
他に全員が一同に歌える曲が無かったし、一番長く練習していた曲だから。
そんな中、特に熱心だったのがキングレコードの佐々木寛という新人ディレクターだった。
当時のキングレコードは歌謡曲や演歌がメインの会社だったから若い佐々木は新しい風を吹き込みたかったんだろう。
自身もロックバンドでベースを弾いていた経験があるミュージシャン上がりの男だった。
佐々木の熱意に押されてクールスはキングレコードと契約することになる。
そう言えば、キングのスタジオでも「リトル・ダーリング」のデモを録った。
キングのスタジオはフォノグラムのスタジオと比べて機材も新しく本格的で
正にレコード会社って感じだった。
クールスのデビューとほぼ同時に舘ひろしはマネージメントを手掛ける事務所を立ち上げた。その名前は「グリースブラザース」ポマード野郎って言う意味だね。
神宮前3丁目のマンションに1DKの部屋を借りて黒いジュータンを引きつめて会社はスタートした。
近くに山本寛斎のブティックがあって部屋は狭かったけどレオンからも近いし、
良いロケーションだった。スタッフはバンド以外のメンバー数人でやることになった。
会社設立に関する資本金集めやその他の手づ付きは舘ひろしが一人でやった。
バンドのプロモーションは上條英男という男に委託することになった。
上條英男は1960年代にグループサウンズのフォーナインエースのメンバーとしてデビュー後、裏方に転身してマネージャーとして頭角を現し、西城秀樹やゴールデンハーフ
安西マリアなどを育てて当てた実績を持つ男。
当時は原宿に今ほどスカウトは居なかったけど上條はいつもレオンでアンテナを張っていたな。
めぼしい女の子が居たらすぐに声を掛ける。とにかく口達者で人を乗せるのが天才的にうまいんだ。話を聞いているうちについ乗せられてします。
ジェームス藤木が影響を受けたギタリスト
デビューするにあたって俺は自前のギターを買った。
それまでは借り物で済ませていたからね。今のそうなんだけど、弦があればいいやって言うくらいで正直あんまりギターに執着が無いんだよ。
その時、手に入れたのは グレッチのテネシアン。確か28万円くらいした。
渋谷の道玄坂に会ったヤマハで見つけたんだ。
二階のガラスのショーケースの中に飾ってあった。「〇〇様お取り置き」なんていうように有名なミュージシャンの名前を記した紙が添えられた楽器が並ぶ中で
そのフルアコのテニシアンはひときわ輝きを放っていた。
当時の主流はマーシャルやハイワットのアンプとギブソンのレスポールやSG。
フェンダーのストラットキャスターやテレキャスター。
音もディストーションがかかったハードロック系なものだった。
グレッチのようにいい意味でしょぼくて古い音がするギターは時代の潮流から外れていた。
だから逆にカッコ良いって思ったんだ。
テネシアンは本来はカントリーミュージック用のギター。
ビートルズが初期にジョージハリスンが使っていたことで有名になったけど
そのころテネシアンを使っているミュージシャンを見たことが無かった。
俺にとってグレッチが特別だった理由はエディ・コクランの愛器だったということ。
エディ・コクランはサマータイムブルースやカモン・エブリバディー等のヒット曲で知られるロックロールのパイオニア。
1960年にツアー先のイギリスで自動車事故で亡くなった時はまだ21歳という若さだった。
俺はずっと彼に憧れていてファッション的にも襟の大きなナッソージャケットの着こなしは エディ・コクランを真似していたんだ。
他にも影響を受けたギタリストにデュアンエディが居る。
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ギターのインスツルメンタルが好きなんだけど、そういうのがいいと思っても周りに周りには話ができる人がなかなか居なかった。
でも近田春夫は良く知っていて デュアンエディの話で盛り上がったことがある。
「ピーターガン」のギターとか聞けばわかるけどデュアンエディは低音を効かすんだ。
「ソルジャーボーイ」の弾き方とかもね。
クールスのやったリトルダーリンのギターソロでは低音を活かす彼のエッセンスを取り入れてメロディーを引いているグレッチならではの音でね。
そして、キングレコードからデビューするにあたりキングはジョニー大倉をプロデューサーに迎えるお膳立てが出来上がっていた。
しかし、ジョニーは名前だけでほとんど現場には顔を出さず、その代わり俺が近田春夫を招いて近田春夫とやったというわけさ。
ということで、今回はジェームス藤木さんが書いたジェームス自伝から
第4章の 「走り出した音楽人生」の一部をご紹介しました。
それにしてもフォノグラムの担当だった井岸義則などの名前なども出てきたり、キングレコードの新人ディレクター佐々木寛がロックバンドをやっていたとか
凄くニッチな情報を出してくれているジェームスさん。
その上、自分が影響を受けたギタリストまで登場させ、赤裸々に当時のことを語ってくれています。
今回ご紹介したのはほんの一部です。
なので、ぜひこの本「ジェームス自伝」を手に取ってほしいものです。
さもなければ、以前佐藤秀光さんが書いたハングリーゴッドでもご紹介した
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オーディブルが良いと思いますよ。
またはもうちょっと細かく知りたい方は僕の体験談の記事をお読みください。
⇒ 僕のaudible体験談
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